ものでもいいし、考え方でもいい。とにかく、何かをつくりだすところに生きている実感が生まれるのではないだろうか。
掃除をすると、そこには、綺麗になったという実態がつくられる。本を読めば、新しい感覚を、感動を自分の中につくりだす。作家は、そこにモチベーションを持つ。
それは、生きる力となり、糧となる。食料は、直接的である。本質的である。エネルギーも然りである。そこで、投資行動というのは、どうだろうか。
株主となり、大規模に金を動かせるとする。長期に責任をもたない。短期で構わない。金を動かすことによって、株価を上げ下げするなかで、儲ける。
あるいは、ある会社に資産があれば、その売却をせまり、それを株式配当にまわさせて、株主は儲ける。その会社は転売してもいい。独自の動機により、経済活動に流れ込む存在である。
経営陣に圧力をかけ、言い分に従わないものは、解任する。経費節減のために、とれるところから取れるルールを強制する。
損保代理店の手数料など、保険料に応じた手数料だったのが、規模であるとか、増収しなければ手数料率を下げるとか、かってなルールを作って、手数料収入を下げまくった。
ついには、積立型の返戻金付きの保険などの場合、顧客の保険料引き落としの銀行手数料を、代理店手数料から引いて、残りはなしとなる究極の状態までにしてしまった。
これなどルールともいえない、略奪である。経費をかけ、人脈を生かし、勧誘に努力して得た契約の成果を、すべてうばいとり、資本側に取り込んでいくのである。
もはや生業として、成り立たない状態になった。株主は、何もしていない。資本側は、金を受け取るだけが仕事である。この状態は、継続不可能である。いつ誰がこの状態を破壊するだろうか。これこそ、その「破壊」は創造といえるかもしれない。