すべてをこれに、賭けることは、いけない。すこしならいいかもしれない。そんなものの気がする。宗教は、証明不可能なものであるに、絶対化して、真剣に信じている人を見ると、危険を感じる。本気であればあるほど、痛ましく思う。囚われている姿である。
個人崇拝もおかしい。池田氏とか、金正恩だとか、崇拝の対象にするのは、明らかに変だと思う。一党独裁の権力態勢も同様である。こういう現象が続くかぎり、社会に害悪をまきちらし続ける。
金は、ある程度は必要なのだが、あればあるほどイイモノではあるまい。多すぎると、副作用があって、さらに金儲けに狂奔するようだと、これは、まさに犯罪となる。
世の中の不幸の原因の大半は、これらにあるのだと思う。
これらのことが、いけないということが、常識となるならば、世の中相当住みやすくなるのではないだろうか。まずは、自分自身をふりかえってみて、へんなこだわりを持っていやしないかと、点検してみたらどうだろうか。
沈黙を重要としたのは、こういうことにこだわっている本音を隠すことが可能なために、本質隠しにもなっているからだろう。少し喋れば、化けの皮が剥がれるのに、黙っているものには、騙されてしまうのだ。