(原題:"Lady Chatterley)
----これって「芸術か猥褻か」のチャタレー裁判で有名な
小説の映画化だよね。
「うん。実はその原作には3つものヴァージョンがあるらしい。
で、今回はその中の第2稿が基になっているんだって。
ぼくは、この小説を読んだことがないから
チャタレー裁判、
あるいは先行して作られたシルヴィア・クリステル主演映画や
ケン・ラッセル監督作などのイメージしかなかったから
ほんと驚き」
----そのイメージってどういうの?
「まあ、それらも完全な形で観たというわけではないから
あくまでもイメージとして聞いてほしいんだけど…。
それは夫が下半身不随になってしまった人妻が
森の猟番パーキンの獣性の虜になっていくというもの。
しかもそこでは、
<性>が挟まれることでそれまでの主従の関係が逆転する…」。
----ニャんだか『流されて…』に似ているニャあ。
「そうなんだ。
だから相手の男パーキンは
オリバー・リード、
もしくはジャンカルロ・ジャンニーニのようなヒゲ面(笑)。
そう、勝手に決めつけていただけに
これはいい意味で裏切られたね」
----“いい意味で”って?
「今回の作品がどこまでが原作に忠実なのかは知らないけど…。
積極的に関係を求めたのはチャタレー夫人。
まあ、これはよしとしよう。
ところがこれが驚きなんだけど、
ラストで
パーキンが自分の内なる女性的な部分について
延々と悩みを打ち明け始めるんだ。
そこで彼はチャタレー夫人を『自分の家』と語り、
『君が世界を広げてくれた。君が自由を与えてくれた』とまで言うんだ。
この言葉を聞いて涙流すチャタレー」
----へぇ~っ。それは確かにイメージと違うね。
監督が女性ということも関係しているのかニャあ。
「そうかもね。
もし、ぼくが原作を読んでいたら、
監督の解釈について
もっと突っ込んだ分析ができるんだけど…。
う~ん。悔しいなあ」
----原作は映画とは別ものと考えるえいにしては
珍しい発言だね。
「だって、そこが分からないから
なんとももどかしいんだもの。
いま、ぼくが話しているのは
自分のイメージを覆す『チャタレー夫人』であって、
映画史の中で異彩を放つ『チャタレー夫人』とは
とても言い切れないわけだから。
まあ、いまさらこれはどうしようもないから先に話を進めるとして、
映画としては抑えに抑えた性描写で
アレレ?って思わせながら、
徐々に大胆になってゆく。
クライマックスの雨の中での全裸シーンは
最近ではあまり見かけない映像だけに衝撃だったね。
いわゆる濃厚なエロスや官能というのではなく
自然と一体化した性と生の歓び。
これも70年代っぽいかな。
なにせ体の茂みに花を挿す…」
----フラワー・ジェネレーションてわけだ(笑)。
「しかし、これも原作にあるのかもしれないしね。
そういえば、チャタレー夫人が花をいけるシーンもあるし、
彼女が着ている服も花柄ばかり」
----へぇ~っ。少女っぽいね。
「そう、それも驚き。
最初は年相応。
しかも夫の看病でくたびれて見えた彼女が
パーキンとの関係が深まるにつれて、
子供っぽく見えてくる。
性に目覚めて官能的な大人になるんじゃないんだ。
このことだけ取っても、
シルヴィア・クリステル版とはまったく違うことが分かると思うよ」
----あっちは『エマニエル夫人』だもんね(笑)。
(byえいwithフォーン)
フォーンの一言「風景もきれいそうだニャ」
※あ~っ。原作が気になる度
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----これって「芸術か猥褻か」のチャタレー裁判で有名な
小説の映画化だよね。
「うん。実はその原作には3つものヴァージョンがあるらしい。
で、今回はその中の第2稿が基になっているんだって。
ぼくは、この小説を読んだことがないから
チャタレー裁判、
あるいは先行して作られたシルヴィア・クリステル主演映画や
ケン・ラッセル監督作などのイメージしかなかったから
ほんと驚き」
----そのイメージってどういうの?
「まあ、それらも完全な形で観たというわけではないから
あくまでもイメージとして聞いてほしいんだけど…。
それは夫が下半身不随になってしまった人妻が
森の猟番パーキンの獣性の虜になっていくというもの。
しかもそこでは、
<性>が挟まれることでそれまでの主従の関係が逆転する…」。
----ニャんだか『流されて…』に似ているニャあ。
「そうなんだ。
だから相手の男パーキンは
オリバー・リード、
もしくはジャンカルロ・ジャンニーニのようなヒゲ面(笑)。
そう、勝手に決めつけていただけに
これはいい意味で裏切られたね」
----“いい意味で”って?
「今回の作品がどこまでが原作に忠実なのかは知らないけど…。
積極的に関係を求めたのはチャタレー夫人。
まあ、これはよしとしよう。
ところがこれが驚きなんだけど、
ラストで
パーキンが自分の内なる女性的な部分について
延々と悩みを打ち明け始めるんだ。
そこで彼はチャタレー夫人を『自分の家』と語り、
『君が世界を広げてくれた。君が自由を与えてくれた』とまで言うんだ。
この言葉を聞いて涙流すチャタレー」
----へぇ~っ。それは確かにイメージと違うね。
監督が女性ということも関係しているのかニャあ。
「そうかもね。
もし、ぼくが原作を読んでいたら、
監督の解釈について
もっと突っ込んだ分析ができるんだけど…。
う~ん。悔しいなあ」
----原作は映画とは別ものと考えるえいにしては
珍しい発言だね。
「だって、そこが分からないから
なんとももどかしいんだもの。
いま、ぼくが話しているのは
自分のイメージを覆す『チャタレー夫人』であって、
映画史の中で異彩を放つ『チャタレー夫人』とは
とても言い切れないわけだから。
まあ、いまさらこれはどうしようもないから先に話を進めるとして、
映画としては抑えに抑えた性描写で
アレレ?って思わせながら、
徐々に大胆になってゆく。
クライマックスの雨の中での全裸シーンは
最近ではあまり見かけない映像だけに衝撃だったね。
いわゆる濃厚なエロスや官能というのではなく
自然と一体化した性と生の歓び。
これも70年代っぽいかな。
なにせ体の茂みに花を挿す…」
----フラワー・ジェネレーションてわけだ(笑)。
「しかし、これも原作にあるのかもしれないしね。
そういえば、チャタレー夫人が花をいけるシーンもあるし、
彼女が着ている服も花柄ばかり」
----へぇ~っ。少女っぽいね。
「そう、それも驚き。
最初は年相応。
しかも夫の看病でくたびれて見えた彼女が
パーキンとの関係が深まるにつれて、
子供っぽく見えてくる。
性に目覚めて官能的な大人になるんじゃないんだ。
このことだけ取っても、
シルヴィア・クリステル版とはまったく違うことが分かると思うよ」
----あっちは『エマニエル夫人』だもんね(笑)。
(byえいwithフォーン)
フォーンの一言「風景もきれいそうだニャ」
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