淀川を流れる水も、
下流のこんなところまで
いろんな世界を眺めつつ流れてきた。
最初は一気に広い琵琶湖から
瀬田川へだ。
まるで心臓から血管に
絞り出される血のように。
南郷洗堰でさらに力を補充した後は、
今度はゴロゴロと岩をこすりながら、
鹿跳橋前後から山間部を流れ、
宇治川となってから
宇治や伏見といった
名勝地をかすめていく。
平安、戦国、維新など
日本の大きな歴史のさなかを
眺めながら
三川合流後は周辺で
大勢の人が遊ぶ
大きな淀川となって流れてきた。
今、歩いているdoironのそばを
流れる川の水は、
ここまで人々の暮らしを
ずいぶんと飲み込んで、
なおも血のように
とうとうと流れている。
人々を潤し、都市の汚れを
流していくという水を
淡々とたたえたこの淀川を、
天気の良い春の日に
またいつものように歩いてきた。
今回は寝屋川部分から先になる。
もう河口までの距離も、
全長75キロのうち
ハーフマラソンに
ちょっと毛が生えた程度の
残りとなっている。
降りた駅は京阪の「香里園」駅。
さあ続きを歩こう。
駅前の人形に再会のあいさつをして、
コースはまず前回歩いてきた
淀川堤防の位置まで戻ろう。
あ、ナビはセットしてね。
二キロくらいをてくてく歩いて
淀川に出る。
前回と逆の向きを見ながら
歩いているから、
この前は見つけられなかった角度に
人形がいたりするんだよねえ。
あ、これは地図で見ると
鞆呂岐神社じゃないでしょうか。
淀川の流れ、過去の木水に備えた神社です。
二十カ用水の樋門のある村々の氏神ですね。
では入ってみましょう―
と行きたいところですが、
やっぱり前回歩くのをやめた
堤防沿いの道に
やはり一旦戻っていくべきですね。
堤防を上に上がっていくと、
おお~たくさんの人たちが
スポーツに汗を流しています。
背割提くらいから
ほんとに多くの人が
この川の河川敷で遊ぶように
なりましたねえ。
河川敷にはヨーロッパ原産の
アカツメクサがいっぱい咲いています。
そんな草々の合間にある
この距離標によると、
河口まであと22.4キロとのこと。
前方には淀川新橋が見えてきました。
茨木と寝屋川を結んでいます。
泉州の人にわかりやすく
言おうとすれば、
そうあの外環の延長線上
といったところでしょうか。
陸のほうには遠くに
生駒山脈も見えています。
昔からこの河川の水防は
強く叫ばれているからでしょう、
こういう水防倉庫が
各地に立っていますし、
こういう排水機場を設けて、
地域の水防にも備えているようです。
大きな川が一つあると、
いろいろと大変ですねえ。
まあdoironも血液サラサラ飲んだり、
圧力下げたりと大変ですけどねえ~。
堤防に書いてある距離標では
あと22キロになりました。
この川の距離標は、
石、
河川敷記入、
看板、
小さな鉄杭と多彩だね。
さて、このあたりからまた
町中に向かっていけば
さっき見かけた鞆呂岐神社に
出るのでしょうが、
一気に川を見て
すっかり飛んでしまいました。
残念ながらスルーですね。
で、このあたり、
河川敷が2重になっていたりと
ちょっと変な形をしています。
これは堤防を水害に備えて
大きくするという
スーパー堤防の名残かなあ
などと思ったりもしたのですが、
なんか違うようです。
そしたら、おお~こんな石が立っていました。
このあたりに、
日本最古の河川堤の築造工事跡である
「茨田堤」があるとのことです。
作られたのは日本書紀によると、
仁徳天皇11年に
「北の河の澇(こみ)を防がむとして
茨田堤を築く
(天皇は洪水や高潮を防ぐことを
目的として、淀川に茨田堤を築いた)」
と書かれてあります。
ではその堤防とはどんなものなのか、
というところで続きます。
時間がたつにつれて、
生物は進化を繰り返してきます。
でも地球上の動物の
大きな進化のきっかけとなったのは、
5度も起こったとされる
大量絶滅でした。
そのたびに新たな優れた生物が
発生してゆくのです。
アンモナイトの化石も
手で触れるようになっていましたよ。
お。これは巨大展示です。
子供たちにみつからないうちに
ふざけて写真を撮っておきましょう。
そして生物は海から上陸をし始めます。
え~、「ランニング大躍進」でいうと、
マラソンで物足りなくなったら
海へもぐって泳ぐようになったり、
自転車に乗ったりする
変な人間とは逆の行動です。
そして、いよいよ
ジュラシックパークで見た
恐竜の世界のような展示になってきます。
こうなってくるとねえ、
小さな子供でも
恐竜の名前に詳しい者が
いたりするんだよねえ。
あれ~ティラノじゃないのかあ、
みたいなことをいう子供が
いたりもします。
いやあ、あんな大きいのは
いないでしょうに。
この展示の合間には、
立派なドキュメントストーリー映像の
流れるテレビが置かれてあったりします。
これら恐竜が絶滅したのは、
「隕石の地球衝突」みたいな
映像が流れていましたが、
それはもう本当のことなんですかねえ。
そう思うと、ここの展示も
どこまでオーソライズされたものなのか
ちょっと疑問符を持ってしまいましたが、
まあ、doironにとっては
あまり大したことではありませんな。
そして、この段階で
人類の祖先であるという
動物の最高の化石が見つかりました。
それがこの「イーダ君」です。
え~っと、友達に
「イーダ」君がいますが
彼もまたアルコールに強い
特別な生物です。
胃の中身まで特定できるような
最高の状態だったそうです。
この展示会のパンフレットの
左側の中断に乗っている
紫の毛をはやした猿のような
映像がその生息時の予想図です。
将来になって、
これは人類の起源である
という説は否定されたようですが、
なかなか奇跡のような化石だったそうです。
このあと展示は人類進化の流れに入っていきます。
300万年前はまだ、
サルみたいな状態だったのですね。
それが日にちがたつにつれ
100万年前、
20万年前と変わっていくわけですね。
このネアンデルタール人の人形は
とってもリアルで、
突然動き出すんじゃないかと
ドキドキしたほどです。
その横にドイロンタール人として
立っておきましょうか。
「あ、また退化が始まっている」
と言われそうですなあ。
「終わりに」のこのコーナーでは、
生物の誕生から進化まで
まとめて書かれてありました。
やっぱり大きかったのは、
ある時期ある時期の
絶滅騒ぎだったそうです。
絶滅は環境の急激な変化に
生き物がついていけなくなる
ことだそうで、
じゃあそれを考えたら、
地球温暖化なんかで
環境が大きく変わろうとしている
今の時代はもう、
あらたな6番目の絶滅の時期に
入っているのかも
と結んでありました。
いやあ、なかなか頑張っている
展示でしたかなあ。
そうそう、展示コーナーから
出たあとの最後のお土産展示コーナーも
お知らせしておかなくてはなりません。
そこではね、
奇妙な生物の人形が売られていたり
とまたこれもまた頑張ってて
面白かったですよ。
高いお金は出せませんが、
せっかくだからと頑張って
買い上げたお土産がこれ、
三葉虫のハイチューです。
えへへ~不気味でしょう。
でも森永制作だから
そんな変ものではないと思うのですが、
実はまだ明けていません。
どんなんが入っているのか
チョットドキドキしますねえ。
気持ちがうんと明るい時に、
えへへと笑いながら開けてみますかねえ。
46億年の生物の進化を
こうしてちらっと見て回った旅、
わずか二話ですがこれにて無事に終了です~。
大阪市立自然史博物館では、
このたび「生命大躍進」と題して
地球誕生40億年の
進化を語る動物遺跡展を
開催しているそうだ。
いつも書いているような
奈良時代やもっと古い縄文時代
なんかの比ではない、
もっともっと古い、
地球誕生のころからの
生物進化を化石等で見せながら
命がどう変化してきたかを
表す展示会だ。
この展示会の招待券を
送っていただいたので、
せっかくだから
出かけていくことにしたのです。
場所は長居公園。
doironのランニング人生の
いくつかの部分が
ここで起こっている。
初マラソンはこの公園の
大会で走ったしね。
まあ自分なりに行ってみれば
doironにとっての
「ランニング大躍進」
の公園でもあるのだ。
公園に入って、会場までは
てくてく歩いていきます。
おお~、あちこちに
今回の展示の宣伝旗等が
上がっています。
ここの長居植物園のキャラクターは
「しょくぽん」ていうんですねえ。
これは、公園周回道路の距離表示で、
長居競技場横の時計下を
スタートして、
14周とここまでで
40キロだそうです。
元気なころだったらなあ
50キロはどこになるねん、
とか100キロはどこやあ
などといってたのになあ。
そうそう、フルマラソンが
ここの40キロだったら、
絶対サブスリーしてたのになあ。
なんて思いながら歩いていきますと、
おお~もうこの公園内でも
生命大躍進が始まっています。
第二競技場横くらいの位置、
そう距離表でいったら
ちょうど1キロくらいの位置で
わいわい歩く霊長類の
大量の子供たちが
歩道をおおいつくしているのです。
この生命大躍進も大変ですねえ。
でもここにこうして
大量にいるということは
むむ~、今回の展示は
中学生以下は無料です。
もしかしたら同じ展示を
見に行くのではと不安になりつつ、
会場に入っていきますと・・・
やっぱり。
会場内の外庭には、
大量の生命があふれておりました。
いや~ん。
こんなんだったら会場内は大騒ぎじゃん。
「金返せー」
と叫んでしまいそうです。
招待券だからただですけど・・・。
でも最近はうまくやってますね。
会場の外で順番を待たせながら、
小グループがついつい~
と中を通過していきますから、
さほど混乱はなかったです。
では少し展示物を紹介していきましょう。
この展示会は、ストロボはあきませんが、
ノーマルの写真撮影は可なんです。
スタートはまずこれです。
46億年前に地球が
誕生したところから始まります。
いやあこれはdoironブログでも
最古の出来事ですねえ。
でも、46億年前って
誰が何を理由にどうして
計算したんでしょうか。
もうこの時点ですべての謎が
始まっていますねえ。
そっから炭素を含む岩石、
カーボン入りの岩石から、
微小生物を含む岩石など
と続き、生物の痕跡が
みられる時代へと続いていきます。
と、時折小学生の集団が
ガワーと押し寄せてきて
追い越していきます。
でもねえ、あんな小学校低学年の子供に、
なんかわからん生物の化石などの
痕跡を見せて役に立つんですかねえ。
かなり疑問ではあります。
展示はそのあと遺伝子の誕生、
脊索動物の誕生と続いていきます。
こ、こんな予想図は
ま、まるでピカチュウの
仲間じゃないですかあ。
あ、そんな関心は非常に
刺激されるかもしれませんね。
まるで村のお母さんみたいな
先生のコメントも
すごいものがありました。
「ほらほら、こんなゴキブリの
お母さんみたいな化石がありますよ」だって。
これが「三葉虫」の超リアル化石です。
ウヒャー、うまいこと言うけど、
まあそれは子供達には
聞き流してもらわないといけませんね。
なんとか聞いたことがあるような
古代生物になってくると、
模型のようなものも
展示されてきます。
これが、「アノマロカリス」。
こういう展示はもう手で
触れそうな位置に
置かれてあったりします。
触ったらあかんけどね。
大きいなあ~と思いつつ続きます。
さあて、ここんところ
義母さんの調子がイマイチだったんです。
時折力なく倒れたり、
思わずお風呂から
上がれなくなったりということで、
歩いて1分の所に
住んでもらっているので、
何とか対応可能だったんですが、
やはり気を許すこともできない。
いろいろと義母さんと相談した挙句、
もう今僕らが住んでいる家に
来てもらうことにしました。
義母さんもミセスも気を遣って
抵抗していたのだが、
もうそんな気遣いなんかいらないから、
こっちにおいでと
散々言い聞かせて
今週の日曜日から
同居することになったのだ。
それがいいだろう。
さいわいこちらの家には
私の両親の介護のために
設けた手すりがあったり
段差もなくした家で
暮らすのに便利だろう。
それに呼び鈴も設置すればあるし、
いろんなところで
不自由な暮らしを
保護することができるにちがいない。
本人は意識はしっかりしているから、
何でも前もって対応を
きちんと話しておけば
問題はぐっと減るだろうて。
いいじゃん、いいじゃん。
なにも気にせず、
一緒に楽しく過ごせたらそれでよかとよ~
と、またdoiron家の新しい生活が
この春からはじまるのだあ。
和泉式部宮を出て、
坂道を下りきると
大きな池の横に出てきます。
そこが「家原大池公園」。
水の一杯張った大きな池ですねえ。
この池の北側には、
三好氏が絡む山城がありました。
これ。
この城の堀にあたる部分が
この池になりました。
池の横を流れている川が、
途中見かけた「伊勢路川」ですね。
このあたりがもう終点近くになっています。
池の水の水量が
この川を通じて石津川に
流れることで調整されていますね。
むかし、受験祈願なんかで
家原寺に来た時には、
大きな池があるだけだったのに、
いまは体育館なんかもできて
立派な遊園地になっています。
この日も大勢の人が遊んではりました。
そんな池を右に見ながら、
おおきな道路を渡りますと、
そこが行基が一番最初に作った
というお寺「家原寺」に到着です。
ここが行基の生誕地であり、
お寺となったところです。
現在では「知恵の文殊さん」と呼ばれ、
受験シーズンには
たくさんの受験生や家族が訪れます。
さあ、ここに入っていきましょう。
仁王さんのいる南大門を
くぐると左にすっくと立っているのが
「行基」の像です。
案内はどこにもなかったのですが、
これはもう間違いなく「行基」でしょう。
そしてさらに中に進んでいくと・・・
あれ~拝観料を取られるんやあ。
昔は無料だったのになあ。
家族で中に入って行って、
今はハンカチに祈願を書いてはるのも、
むかしはチョークで壁面に
書いたりしてんやなかったかなあ。
まあ、お寺といえども、
施設の管理なんかにも
経費が掛かるやろうから仕方ないのかな。
賽銭箱に入館料200円を入れて
中に入っていきます。
まあ、いま合格を願うことといえば、
委員をしている委員会が
この夏、WHOの審査を
受けることになるので、
それがうまくいくように
願うことかなあ。
パンパン、よろしくお願いしときます。
三重塔なんかもありますが、
まあこちらは遠くから
眺めておきましょう。
水かけ不動さんに水かけて、
大師かがみ井戸などを眺めながら、
本日最後の行基遺跡である
家原寺をあとにしました。
歩き始めて距離もまだ
10キロを超えていないので、
この時点でまだお昼前でした。
こうして津久野駅まで歩きながら、
コンビニ昼食にしようかな
ときょろきょろしてますと、
おお~ときはま線のところで
前から気になっていて、
一度も入ったことのない
ラーメン屋さんが見えました。
「龍旗信」です。
かつてはそんな時間だと
待ち客で店の外まで
大渋滞だったのですが、
いまは待ってる人もいないようですから、
これはぜひ入ってみなくてはなりません。
入り口で目玉商品と言われる
塩ラーメンの食券を買って入場です。
あれ?客は一人だけですか。
こういう施設ははやりすたりがあるんですねえ。
で、やってきた商品がこれ。
味はというと、
うんうん強烈な味のきついものではなくて、
あっさりしているのは
まあまあ嫌いなほうではありません。
また今度こういう時間帯に通ったら
入ってあげましょう。
食事を終えたら津久野駅に向かいます。
この辺りは昔に比べて
大きく変わりましたねえ。
堺市の総合医療センターなんかが
街を変えていったんでしょうね。
「ほろほろと鳴く山鳥の声きけば
父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」
行基の歌です。
人民救済の事業で、
人々の暮らしを守った堺の菩薩上人の
業績を眺めつつ、
この歌のようにふわりとした
温かさを感じた旅でした。
また、和泉式部の熱い思いも確認しつつ、
歩いた距離は何とか10kmほどでしたが、
意外に濃い中身の楽しい話題となりました。
いろんな事業を行儀よく見つめて回った旅、
これにて終わりです。
この小学校の窓にはこんな張り紙が・・・
「進んでハゲる明るいおでこ」。
いやあ、なんとなく親しみの持てる
小学校ですねえ。
え?ちゃいますか。
失礼しました。
道に咲いている「ユウゲショウ」や
八田寺町のだんじり小屋なんかを
眺めながら歩いていきますと、
前方にお寺が見えてきました。
「華林(けいりん)寺」です。
行基十三歳の時に、
母親側の蜂田連が氏寺として
創建したので
「蜂田寺」と呼ばれていました。
それを行基三十九歳の時に
母親供養のために
「華林寺」
として再興したものです。
この神社には行基十三歳の時の
有髪絵画があるそうです。
毎年一遍開帳して
お勤めが行われるそうです。
へえ~、それなら肩まで毛の生えた
doironの登山時代の写真もありますので、
いつか開示してあげましょうかねえ。
この「華林寺」は行基の
母かたのゆかり寺ですので、
別名「家原寺の奥の院」
とも言われているそうです。
そこからしばらくは住宅街、
というか町の中を歩いていきます。
ちょっと高台になっていたんですね。
ここから先は道は大きく下っていきます。
そして下りきる途中に、
もう一人の人の遺構を訪ねておきましょう。
途中道の端にこんな石が立っていました。
「泉式部」と書かれてあります。
た、たぶんこれは
「和泉式部」のことでしょう。
この近くに彼女の住んでいた
「和泉式部宮」があるので
尋ねてみようと探ってみました。
しかし、案内書通りに
狭い道を歩いていきましたが、
どうも場所がよくわかりません。
あれ~と思って不審がられないように
きょろきょろしながら、
ようやくこんな建築工事の横の
せまい道の奥に
何かありそうだったので入ってみますと、
おお、まちがいなくここでした。
長年のうろうろ癖で
きづいた直感は
間違っておりませんでしたなあ。
いやあ、それにしてもこんな
不審な挙動を取らせるとは
さすがに恋多き人
「和泉式部」ですな。
変な目で見る人が見たら、
もう全く挙動不審な
おっさんに見えたかもしれませんね。
彼女のことは二年ほど前に
いくつか勉強をしました。
以前、熊野古道を歩いているときに
久米田のあたりで
「彼女の恋の淵」とかを
訪ねて歩いたもんね。
その時、彼女のことを
しっかり書きましたねえ。
あの久米田のあたりのことは、
どうも熊野比丘尼の語りが
「和泉式部伝説」を作っていったのでしょう
ということでしたね。
そしてあの紫式部が
「恋文や和歌は素晴らしいが、
素行には感心できない」
と言った彼女です。
和泉式部はそんな語り部にとって
「恋多き女」「はしため女」として、
絶好の素材だったのでしょう。
日本各地で彼女のことが
語られていますので、
いろんな場所で
彼女の伝説跡が残っていますし、
彼女が残した多くの歌から、
彼女の日記や歌集が
数多く残っているように、
彼女はある意味当時の
ヒロインだったのかもしれませんね。
でもねえ、当時の女性の恋は
こんな感じだったんじゃないでしょうか。
一夫多妻制度のような状況が続く中で、
女性の恋は生活とも
強く関連していたんでしょうね。
ただ彼女の場合、
その相手が皇室だったりしたので、
マスコミのない世の中でも
庶民に厚く語り継がれたんでしょう。
何が本当で、何が飾りなのか
よくわからない状態で
彼女の姿は偶像化していったのでしょう。
この堺のちょっと小高い
こんな土地も彼女の
「旧居跡」となっていますが、
その真実のほどは
よくわからないのじゃ
ないでしょうか。
行基が数多くの庶民救済の
事業を成し遂げ、
人々の暮らしを変えて行った
時代から見れば、
和泉式部の時代は
300年も先のことでした。
ふむふむと続きます。
野々宮神社を出たら、
コースは泉北1号線をこえていきます。
交差点から深井清水町
のほうに入っていきますと、
「ソフィア堺」という施設があります。
「ソフィア」とは知識のこと。
知識や教育の場を提供する
という堺市の施設です。
おお~プラネタリウムもありますね。
実はうちのミセスもかつては
別の市でプラネタリウムの
おばさんやったんです。
なのできっとここにも
来たことあるやろなあと
かえって聞いてみたら
「行ったことあるよ~」
と懐かしがっておりました。
その施設の中庭を通り抜けて、
村の中に入っていきます。
深井清水町という町名も、
このあたりには行基が掘った
井戸もあったらしく、
町名の「深井」や「清水」も
その行基の功績に因んだもの
となっているそうです。
そんな深井清水町の中には、
こんな川も流れています。
一級河川でも二級河川でもないけれど、
その公共性から考えて
市町村が重要とみなした川を
「準用河川」と言います。
そしてこの河川周辺から
「お伊勢参り」に行く人を
見送ったというところから
この村中の準用河川には
「伊勢路川」という名前がついています。
先ほど電車から降りた
深井の駅のあたりから
津久野の石津川に合流する間の
2~3キロを間を流れるだけの川ですが、
立派な名前がついていますねえ。
赤福が食べたくなってきます。
この川に沿って登っていきますと、
村の中にもおかしな空き地があったりします。
ここは何やらいわくありげな物置ですねえ。
十三重の塔があったり
さざれ石があったりと
何かを目指して張るような場所です。
前方にちょっと小高い丘が
見えてきました。
これが、「深井花のこみち」
と呼ばれている公園です。
この中を歩きましょう。
この公園は地域のボランティアにも
支えられている公園だそうです。
色とりどりの花が植えられていて
とてもきれいでした。
朝、深井駅を降りて歩いていても、
他ではあまりみられないほど
大勢の人が、熱心に植木の管理を
されていました。
そういうボランティアの人たちに
この公園も管理されているんですかねえ。
そういう地域なんでしょうねえ。
ジャーン!ここで一つクイズです。
この写真は一体何の写真でしょうか。
「大きなネズミ捕り?」
いやあ、いまどきネズミ捕りも
なかなかありませんよねえ。
そしたら、
「トンネルの万華鏡写真」。
ふむふむ、なるほどねえ。
でも違います。
これはねえでっかい送電鉄塔の
真下から見上げて撮った写真で~す。
こういう鉄塔の下は
よく公園になったりしていますねえ。
200mほど歩いて
公園を出たら今度は堀上町の
村の中を進んでいきます。
あ、こんなコーヒー1杯50円の
ふれあい喫茶があります。
たまたまここから出てきた
6人くらいと同じ方向を向いて
歩きだしたら、
前からくるお年寄りたちと
話をしているのが
耳に入ってきました。
みんな、この喫茶店を
目指しているようでしたよ。
どうも近頃はこういう取り組みが
進んでいて、福祉委員をしている
ミセスたちにも行政側は
こんな事業をしないかと
話しかけてくるようです。
高齢者が増えると、
世の中のいろんなシステムも
これからどんどん変わってくる
かもしれませんねえ。
この辺りは田んぼがあったりして
結構田舎の景色です。
立ってる家も古いしねえ、
と思いながら家々を眺めていたら、
こんな鐘馗さんを発見しました。
お、ここにもついてます。
おお~ここもです。
周りにお寺や神社が・・・
と思ってみていましたが
わかりませんでした。
きっと何かの意味があるんでしょうねえ。
ここは「鈴の宮公園」です。
この先にある「蜂田神社」で、
土で作った鈴の音色で
豊作を占ったことから
この辺りは「鈴の宮」と言われています。
行基の母は「蜂田首虎身」の
小姫であったことから、
この神宮とゆかりがあります。
このあたりの町名は今は
「八田寺町」なんですが、
この町名も「蜂田」にちなんで
つけられた名前なんだそうです。
神社の中をぐるりと回ってさあ、
次の見どころへと向かいましょう。
コースはこのあたりから
北方向へと変わっていきつつ
続きます。
この土塔のある公園は
「土塔町公園」として残されています。
doironが歩いたこの日も
多くの人が訪ねてはりました。
あ、それは土塔を見に来てではなくて、
近所の人の散歩やキャッチボールなどの
遊びでですけどね。
土塔の横には、
「大野池」という池も残されており、
水草の茂るしっかりした
池の姿をしていましたな。
大きなアオサギが一羽、
置物のように水面のところに立っていたっけなあ。
この公園の横にあるのが
「大野寺」です。
ていうか、もともとこの土塔自体が
大野寺の中にあった仏塔なんです。
この寺は行基が開創した
四十九院の一つです。
その頃は、土塔を含む大伽藍だった
といわれていますが、
今は道を隔てた一寺院
という感じで公園の横に立っています。
しかもここは門も閉じていて、
中をうかがうことができません。
周りをぐるっと歩いてみましょう。
あ、これは大野寺の東側に
隣接している「土塔神社」です。
この辺りは、町名も神社も
「土塔」と呼ばれているんですねえ。
お寺の中は、
適当な壁の上面から
手を伸ばして撮影しておきましたぜ。
とまあ、一つ目の行基の
お仕事はこんな感じでした。
土塔とそのお寺は、
その施設が立派であるにもかかわらず、
ちょっと知名度の低い場所でしたねえ。
コースはここからもと来た
道のほうへと戻っていきます。
このあたり、
道もこんな風にいろいろと
整備されていますし、
植木ばさみ一つをもって
あちこちで植木の整理をしている
高齢者を何人も見ましたよ。
地元愛の強そうな場所なのかもしれません。
こんな公園のところで
来た道からそれて
北のほうへと歩き始めます。
昨日も書いたように、
行基はいろんな事業の中でも
あちこちに有名なため池も
多く作っています。
久米田池、狭山池そして少し前に行った
伊丹の「昆陽池」もそうでした。
そしてこの近くに作ったという
薦江池という池も今は
「菰池」という名前で残っているそうです。
この菰池は水質浄化の取り組みが
盛んだったところで、
ホテイアオイによる浄化や、
ホテイアオイにたかる小蝿のこととかが
かつて新聞をにぎわしました。
何度か仕事で施設しに行きもしたのですが、
あのころはこの池が
まさか鎌倉時代に上人が開創した
ため池だったとは、
全く気にもしなかったですねえ。
そしてこの公園「水賀池」も
行基の改装した薦江池技術に基づいて
開創された池の一つです。
桜とつつじがきれいそうですねえ。
花の盛りのころじゃなくて残念です。
水質はちょっとアオコが出ていますねえ。
富栄養化でしょうか。
カメもちょっと外気で息抜きしていました。
あ、この結婚式場には
村の人の結婚式で
来たような記憶があります。
こうしてぐるっと池の周りを
半周回って、
池のふちに降りたところに
この池の記念碑がたっていました。
碑文によると、
土塔のところにもちらっと
書かれてあったように、
昔はこのあたりで
大きな水争いがあったようですねえ。
水はそんなに大変だったんですね。
そんな水賀池を離れると、
コースはここから
西のほうへと向かっていきます。
泉北高速鉄道の下をくぐり、
なおかつ進んでいきますと、
前方に大きな緑の木が見えてきました。
堺市の保存樹林に指定された
「常陵郷(とこはか)の森」を持つ
「野々宮神社」です。
クスノキやカイズカイブキの
巨木が生えています。
この神社の祭神は
「素戔嗚尊、火産霊命、菅原道真公」とされ
火の神、農業の神として
崇拝されてきましたが、
道真公はこの神社を
文字の神様として
位置付けているとのこと。
え~、一応「フリーライター」の
身であるdoironとしては、
「これからもいい言葉に出会えますように」
とお祈りしつつ、続いていきます。
昔、僧というのが
国家機関で施設を作ったり、
土木工事をしたりと
大きな実績を残してきました。
なかでも、より世間に
評価されるような仕事を
残してきた人などは
「上人」と呼ばれるようになったそうです。
我々が住むこの地域にも
いろんな僧がいたそうですが、
なかでも有名な僧のひとりに
「行基」がいました。
現在の堺で生まれ、
諸国をめぐりながら
社会事業に尽くした僧です。
doironがこれまで各地あちこちを
うろうろ歩いた中でも
彼の名前は何度も登場しています。
これまでのブログでチェックしてみますと、
最近では狭山池、久米田池、
有馬温泉、花山温泉。
地蔵尊では沖向地蔵尊、立江地蔵尊。
お寺では大野の阿弥陀さん、
加茂の燈明寺などと
数えて行けばいくつも出てきます。
人々の暮らしを救い、
心を救い、民衆救済のために
彼が行った事業は多く、
そんな彼は人々から「菩薩上人」
とも呼ばれ慕われてきたと
いわれています。
そんな彼の生誕地や
事業をさらに確認してみようと、
関連地を巡る10kmほどのコースを
堺市内にとれるというので、
今回はそんな道をまた
いつも通りにひょこひょこ
歩いてきたわけです。
残っている彼の痕跡は?
そしてそれが今どうなっているのか
と訪ねて歩いた歩行の報告です。
「いつも優しく行基よく」
シリーズの始まりです。
世間がまだGWと騒いでいる土曜日の朝、
どうやら天気も落ち着きそうなので、
朝早くからスタートすることにしました。
GW、二回目のウォーキングお出かけです。
ミセスの車で光明池まで送ってもらい、
そこから泉北高速でスタートの
「深井」までガタゴト行きました。
その駅からうろうろと歩いて
阪和線の「津久野」駅へと
向かうのが今回のコースです。
午前9時過ぎにもう
深井駅に到着です。
車でこの近くを通ることは
何度もあったのですが、
電車でここまで来ることは、
もしかしたら初めてかもしれませんね~。
結構にぎやかな駅です。
コースはここから一度
東のほうへと向かいます。
最初の訪問先は、
行基が建立した「大野寺」方面です。
ここには、奈良時代の僧である彼が、
大野寺の仏塔の一つとして
建てた仏塔が再現されています。
それがこれ。
一辺が50m以上の四角形で、
13段あったものが
12段まで再現されて、
現在8m以上の仏塔(土塔)
がそびえています。
でもこんな施設は他でも
あまり見たことがないですよねえ。
はじめてこの土塔の姿を見たときは
ピラミッドか古墳のような感じを受けて、
軽いショックを受けました。
よく似た施設に奈良市の高畑町の
「頭塔」というのがあるそうですが
(ネットから)
現物は見たことがありません。
13段の上には
このモニュメントのように
八角の祠があったのでは
と言われています。
この土塔の発掘時には
たくさんの瓦が出土したことからも、
ピラミッド状に積み上げた
各階に瓦を噴いた構造に
なっていたことが分かったそうです。
その出土した瓦をよく見てみると、
塔を作るときに協力した
様々な階層や職業の人の
名前が書かれてあったそうで、
この塔は行基の60歳の時の
頃の事業だったそうですが、
瓦に刻まれた多くの人の名前や
職業によると、
彼の社会事業は幅の広い
いろんな階級の人々に
支えられたことがよくわかるそうです。
この土塔の周りをぐるっと回ってみましょう。
半分は瓦補修がされており、
残り半分はそのままにしてあります。
そしてところどころに
こうして通路が設けられ、
積み上げられた土の様子なんかが
わかるようにしてありました。
通常、仏塔といえば
「五重塔」や「十三重の塔」などの
木造建築が多いのですが、
ここのような土塔の仏塔は
希少なんだそうです。
そんな施設を眺めながらも続きます。
ここが淀川資料館です。
小さな資料館ですが、
簡単な展示の他、
本などもいっぱいおかれているので
その気になれば
いっぱい勉強できるところです。
以前に来たあの時も、
そこそこ勉強させてもらいましたな。
そんなわけで、
無料であるにもかかわらず
今回は入館なしです。
外にある展示を眺めておきましょう。
これが周辺の案内図。
おっ、琵琶湖の形の池と
小さな淀川模型と
大阪湾まで作られているようです。
なかなか現地からはわかりませんね。
そしてこれは、
もうちょっと何回か先の
淀川歩きの時に到着するであろう
「旧毛馬洗堰と旧毛馬閘門」の
遺構跡(レンガのかけら)の展示です。
そんな意向を眺めながらも
どんどん下っていきます。
おっ、海まで26.5kmです。
石の距離票があったり、
こんな簡単な杭が打たれていたり、
と、いろんな形で川のことが示されています。
資料館を出てしばらく歩いていきますと、
道はまた自動車道の歩道へと入っていきます。
下に降りて、静かな歩道を
歩いてもいいのですが、
この先の自動車道路沿いに
見たいものがあるので、
がまんして歩道を進んでいきましょう。
前方に見えている橋は「枚方大橋」です。
そういえばこの辺りは、
マラソン大会や駅伝なんかでも
走ったことがあるように思います。
あの頃は元気だったなあ。
あ、ここが鍵屋資料館です。
立派な鍵を作っている・・・
というのではなく、
「鍵屋」というのは船の乗船客にとっての
船待ち宿である。
枚方宿の名物は、
船の乗船客相手に
「餅くらわんか、酒くらわんか」と
入り上げ言葉を挙げて商売する
「くらわんか船」が有名だったそうだ。
船が交通の重要な役割を
果たしていたころには
こんな船待ち宿も
たくさんあったんでしょうね。
京都から、大阪八軒家浜まで
船に揺られそこから熊野に
向かった人々も
こんな船運を使っていたんでしょうねえ。
あ、遠くにヒラパーの観覧車も
その先で、道路の左側には
ちょっとした遺構が見えます。
ひとつがこれ。
道標を見ていると、
京街道の道標が
ここに建てられているようです。
それから、郵便屋の渡しあとの
碑が建てられています。
そうこの辺りには、
郵便屋さんの渡しがあったそうです。
「郵便屋さん 走りんか
もうかれこれ 12時や」
なんか大阪の庶民的な言葉が
書かれていますねえ。
そして、その少し先に立ってた
「巨大石碑」は明治18年に起こった
淀川の洪水碑の石です。
堤防が切れて広範囲に水が
市街地に流れ込んでいったといわれ、
それを機に建てられたものです。
明治18年6月に降り始めた雨は
15日、16日が豪雨で
「枚方切れ」を起こして水があふれだし、
死者・行方不明65名、
浸水戸数約7万個という
大災害となったそうです。
その後も水害は続き、
淀川と人々との暮らしは
様々な戦いを続け、
流れの改善や河川の整備で、
今になってようやく
落ち着いているようですね。
そんな碑を眺めてから、
ようやく枚方大橋をこえていきます。
するとその先で、
河原の道に先日
熊野古道で見つけたような
路面標示に出会いました。
「IL25.0」と書かれています。
そう、これもまた距離表示です。
ちょうど海まで25kmの
ところに書かれてありました。
そうしてその後も24kmの地点まで
てくてくと歩いて、
この日はこのあたりで
終了することにしました。
この日歩いたコースはこんな感じです。
これで淀川はつぎに
寝屋川部分から
歩き始めることになります。
そして淀川歩きも実は
歩く道は下流の方は
淀川の右岸と左岸両方にあります。
いったんゴールしたら
その次は川の向こう側を
歩いてみようかなと思っています。
まあとりあえずGWの淀川、
今回はここまで。