この土塔のある公園は
「土塔町公園」として残されています。
doironが歩いたこの日も
多くの人が訪ねてはりました。
あ、それは土塔を見に来てではなくて、
近所の人の散歩やキャッチボールなどの
遊びでですけどね。
土塔の横には、
「大野池」という池も残されており、
水草の茂るしっかりした
池の姿をしていましたな。
大きなアオサギが一羽、
置物のように水面のところに立っていたっけなあ。
この公園の横にあるのが
「大野寺」です。
ていうか、もともとこの土塔自体が
大野寺の中にあった仏塔なんです。
この寺は行基が開創した
四十九院の一つです。
その頃は、土塔を含む大伽藍だった
といわれていますが、
今は道を隔てた一寺院
という感じで公園の横に立っています。
しかもここは門も閉じていて、
中をうかがうことができません。
周りをぐるっと歩いてみましょう。
あ、これは大野寺の東側に
隣接している「土塔神社」です。
この辺りは、町名も神社も
「土塔」と呼ばれているんですねえ。
お寺の中は、
適当な壁の上面から
手を伸ばして撮影しておきましたぜ。
とまあ、一つ目の行基の
お仕事はこんな感じでした。
土塔とそのお寺は、
その施設が立派であるにもかかわらず、
ちょっと知名度の低い場所でしたねえ。
コースはここからもと来た
道のほうへと戻っていきます。
このあたり、
道もこんな風にいろいろと
整備されていますし、
植木ばさみ一つをもって
あちこちで植木の整理をしている
高齢者を何人も見ましたよ。
地元愛の強そうな場所なのかもしれません。
こんな公園のところで
来た道からそれて
北のほうへと歩き始めます。
昨日も書いたように、
行基はいろんな事業の中でも
あちこちに有名なため池も
多く作っています。
久米田池、狭山池そして少し前に行った
伊丹の「昆陽池」もそうでした。
そしてこの近くに作ったという
薦江池という池も今は
「菰池」という名前で残っているそうです。
この菰池は水質浄化の取り組みが
盛んだったところで、
ホテイアオイによる浄化や、
ホテイアオイにたかる小蝿のこととかが
かつて新聞をにぎわしました。
何度か仕事で施設しに行きもしたのですが、
あのころはこの池が
まさか鎌倉時代に上人が開創した
ため池だったとは、
全く気にもしなかったですねえ。
そしてこの公園「水賀池」も
行基の改装した薦江池技術に基づいて
開創された池の一つです。
桜とつつじがきれいそうですねえ。
花の盛りのころじゃなくて残念です。
水質はちょっとアオコが出ていますねえ。
富栄養化でしょうか。
カメもちょっと外気で息抜きしていました。
あ、この結婚式場には
村の人の結婚式で
来たような記憶があります。
こうしてぐるっと池の周りを
半周回って、
池のふちに降りたところに
この池の記念碑がたっていました。
碑文によると、
土塔のところにもちらっと
書かれてあったように、
昔はこのあたりで
大きな水争いがあったようですねえ。
水はそんなに大変だったんですね。
そんな水賀池を離れると、
コースはここから
西のほうへと向かっていきます。
泉北高速鉄道の下をくぐり、
なおかつ進んでいきますと、
前方に大きな緑の木が見えてきました。
堺市の保存樹林に指定された
「常陵郷(とこはか)の森」を持つ
「野々宮神社」です。
クスノキやカイズカイブキの
巨木が生えています。
この神社の祭神は
「素戔嗚尊、火産霊命、菅原道真公」とされ
火の神、農業の神として
崇拝されてきましたが、
道真公はこの神社を
文字の神様として
位置付けているとのこと。
え~、一応「フリーライター」の
身であるdoironとしては、
「これからもいい言葉に出会えますように」
とお祈りしつつ、続いていきます。