翌日はまずまずのお天気。
お世話になった道の駅でパンの朝食を食べ、
スタートの田辺に車で戻ります。
リサーチしてあった駅近のコインPに車をとめ、
ナビをセットし、歩きはじめました。
駅前を抜け、
昨日とは別の商店街を北を向いて歩いていきます。
あ、こんな店がありました。
お持ち帰りコーナーもあるようなので、
昨夜のご飯にここの
イカの一本寿司を買えばよかったなあ。
その先の道標のところを右折して踏切を渡ります。
ん?何か書いています。
時間によっては開かずの踏切になるようです。
さっさと渡りましょう。
季節はもう秋ですねえ。
道端にコスモスも咲き乱れています。
本来なら熊野古道は
そのまま真っすぐの方角なんですが、
一旦左折して道標にある
高山寺を目指しましょう。
前方にある森がそのようです。
会津川に出たところに大きな石が立っています。
高山寺は聖徳太子が開創した
弘法大師ゆかりのお寺だから、
字の感じから多分「大師途」ですかねえ。
ひょっとしたらそこにかかっている
「大師橋」なのかもしれません。
道標の字はいつもわかりにくくて、
どんな勉強をすればいいんでしょうかねえ。
橋を渡って高山寺の入り口横に
蒲鉾屋さんがあります。
田辺のこのあたりは蒲鉾作りが盛んです。
中を覗いたら、女性数人で、
原料となる「エソ」のウロコ取りをしていました。
ここは手造りが評判で
「アツアツ」がとても美味しいそうです。
まだ朝食を食べたばかりなので、
スルーし寺の石段を上がっていきました。
途中こんな貼り紙が・・・
ヘビが出るようです。
どわっ!何か足元で動きました。
カニさんもでます。
も、もしかしてベンケイガニ?
いや、サワガニでした。
石段をさらに登っていきます。
会津川のほとりにあり、
たびたび水害に襲われた地域だからこそ
高台に作られています。
そんな場所ゆえに、
さらに以前の縄文時代にも人が住んでおり、
この寺には貝塚が多く確認されています。
いわゆる古代の人々の
ごみ捨て場のようなもので、
貝殻や獣骨のみならず
破損した土器なども捨てられているそうです。
当時は文字もないので、
記録もありません。
捨てられて残っているものが
当時の生活を物語る貴重な遺跡のひとつです。
その高山寺貝塚のひとつがここ。
大きな石に囲まれ、
くぼみのような池に水がはられています。
その貝塚からさらに進んでいくと、
墓地に出ます。
この墓地には、何度も出てくる
「田邊の三人」のうち、
二人の墓があります。
おひとりがこれ。
植芝盛平。明治に生まれ
昭和に生きた合気道の祖と言われています。
こういう武道の達人と言われる人には
様々な逸話が残っています。
ある相撲取りが彼の手を取った時に
鉄棒を握ったような感触だったので、
思わず投げ飛ばそうとしたら
逆に自分の体が吹っ飛んでいた。
とか、
ある著名な柔道家が
彼に技をかけようとしたが、
真綿を相手に戦っているような感触だった
という話が残っている。
時に強情に、時に柔軟に。
あ、これ絵の言葉になるなあ。
でも最近はあまりスポーツとしての
合気道の話は聞きませんねえ。
出でよ、第二の植芝!
と関係者は思っているのでは?
そしてもう一人の墓が、
先にも登場した南方熊楠の墓。
南方家先祖代々の墓の横に、
ひときわ大きく
そしてシンプルに立っていました。
この墓所の横には
「南方熊楠先生の御霊に捧ぐ」
と書かれた木柱が立てられてあります。
彼を師と仰ぐ人が建てたんでしょうねえ。
一途に生きた人はこうして死してなお
尊敬されるんですねえ。
夏の終わりのミンミンゼミが鳴く中、
墓所を出て伽藍に向かいました。
これが聖徳太子が開創したといわれる
この寺の多宝塔。
弘法大師にもゆかりがあって、
地元の人はこの寺のことを
親しみを込めて
「おこぼさん」
と呼んでいるそうです。
ありがたや~と続く。