ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 稲葉根に行かねば7

2015年09月18日 21時25分18秒 | ウォーキング

三栖王子跡を出ても
しばらく山道が続きます。
やがて、車道に出たところに道標があり、



残念ながら旧道は崩落して
通行止めになっているとのことでした。



古い地図にも迂回路が書かれてあるくらいだから
長い間人が入っていないのでしょう。
それらしき道が深い雑草に覆われていました。

仕方がないので、迂回路の車道を歩きます。

ところが、これがまた交通量も多く、
坂道も急です。



ここへきて試練の道になりました。

しかし、熊野へ行くと、
思い込んだら試練の道をゆくが男の生きる道です。



「柿見橋」を渡り、



ようやく登りきる頃、
前方にトンネルが見えてきました。



全長370mの「新岡坂トンネル」です。



端っこの狭い歩道を
トンネル内を走行する車の
ゴーっという音に怯えながら歩き、



出たところで先ほど通行止めになっていた
旧道との合流点にでます。



そこにも道標と共に通行止めの看板と、
こんな看板もありました。



「南方熊楠山中裸像撮影場所」
と書かれてあります。

こんな写真を撮ったそうです。



熊ちゃん、おちゃめなところもあるんですねえ。

道にはもう早くもイガグリが落ちていました。



再び車道に出たところに
次の「八上(やがみ)王子跡」への
交通案内があります。



初めてここに来た人には、
そこが何なのか、”王子跡”て何なのか
ローカルすぎてわからないだろうて。
王子様がいるのかと思って
立寄る女性がいるやもしれません。

この王子には専用の駐車場もありました。



いってみれば昔だと、
馬場だったり荷物置き場、
駕籠置場、お付の人の待機場
だったりするところですかね。

江戸時代までは八上王子社として
拝殿があったそうですが、
明治になってから
今の八上神社になったと説明されています。

ここは社格で言うと「村社」にあたるそうです。

先の須佐神社もそうでした。
「村社」は「郷社」の下の格です。

決して、日本選手権10000mで
かつて6連覇を果たした
オリンピック選手である「村社(むらこそ)」講平を
称える神社ではありません。
(あれば行ってみたい!)

まあ、言ってみれば
「村の鎮守の神様」みたいなもんですね。



入り口に例の「八上王子跡」と書かれた
熊野ブルーの案内板がありました。



石段を上がっていくと、
苔むした灯籠や社殿の石段があり、
いかにも村社というべき佇まいやったな。



ここにある西行の碑は
どんな資料にも取り上げられています。
王子で西行が歌った
唯一の歌だそうです。



「待ち来つる 八上の桜 咲きにけり
あらくおろすな 三栖の山風」

ここを出て水路沿いの狭い古道を
進んでいきつつ足元を見ると、
もう「上富田町」に入っているようです。



マンふたが、
上富田町の市の木ヤマモモと
市の花サクラをあしらったデザインに
変わってましたからね。

マンふた写真も展覧会ができるくらい
ずいぶん集まりましたな。

岡小学校の手前で橋を渡らずに



土手を歩いていきますと、



道標にいよいよ最後の
稲葉根王子の表示が現れました。



と、その前に今回の歩行で
楽しみにしていた神社があるはずです。

あ、前方に見えてきました。



「田中神社」です。

田んぼの中にポツンと森があって、
あの「遠野物語」の著者柳田國男氏が、
日本古来の風景と評したという神社です。

何度も登場する熊楠も
この森に興味を持ち、
粘菌の調査をされたようです。

あ、そうそう、それで思い出しました。
doironもそろそろしっかりと
年金の調査をしなければなりませんな。
粘菌みたいに増殖しないかなあ。

稲穂もこうべを垂れはじめた



田の縁にはオモダカも咲いています。



これもまた日本の原風景のひとつ
かもしれませんね。

そんな田中神社に行く前に
見ておかねばならないのが、

「大賀蓮」です。

千葉県で地下7mのところから出てきた種子を
発芽させた蓮をこの地に分根したものだそうです。

2000年の眠りからさめた蓮が、
ここにも姿を現すのです。
いやはや、神秘的ですな。

30分の昼寝から目覚めたdoironとは
えらい違いです。

これがその大賀(おおが)蓮の畑。



ん?「畑」でいいのかな?と続く。