汐見峠を下っていくと、
この日は商品は並んでいなかったけど、
ミカンの無人販売所があったりして、
さすがに和歌山ですねえ。
県道18号との交差点も越え
小さな案内の春日神社を目指して直進します。
川沿いの広い道をしばらく行きますと、
左に「春日神社」の看板が出てきますが、
曲がるのはここではありません。
資料の地図では右に松代橋があり
曲がるところには
石標や案内板があるはずですから、
曲がりたい気持ちを抑えて
もう少し直進しますと・・・ありました。
これが松代王子を経由して
春日神社にいたる道の分岐です。
曲がってみましょう。
すると、すぐに山道になり、
足下には「タツナミソウ」が咲いています。
かつてはどこにでもあった花なんでしょうが、
最近はめっきりと見なくなりました。
そんな自然を愛でながら
山道を歩き続けると
中腹のところにひっそりとあったのが、
「松代王子跡」です。
日方川の松代橋のところにあったので、この名前です。
写真の祠の中にある王子名が刻まれたこの石は
紀州藩の藩命で建てられたそうですが、
御幸の頃は先ほどの分岐近くの
古道沿いの民家の屋敷内にあったそうです。
こんな山の中じゃ、
遥拝するにも休憩するにもさびしすぎますもんね。
さびしい山道をさらに登って行きますと、
「春日山城跡」があります。
春日神社の敷地内にあった支城です。
その春日神社には、
熊野古道そのものが
拝殿に掲げられています。
それは大きな扁額で、
昔、日方川に架かっていた
橋(幅1.5m、長さ5m)だったそうです。
伝承では、土車に乗った小栗判官が
車通行禁止になっていたこの橋にさしかかった時に、
照手姫が春日神社に
土車での通行の許可を願い出て
許されたということになっています。
まさに、この板の上を
大勢の熊野詣の人が歩いたんですねえ。
古道の名残を色濃くとどめる神社をあとにして、
南下をしていくと、
途中こんな橋を渡ります。
先ほどの板橋が似合いそうな川に架かっています。
名前は「かいなん橋」とでも読むのでしょうか。
それを過ぎると、左右から交差する道が、
やけにまっすぐです。
それもそのはず、この道はもともと
「野上電気鉄道」の軌道敷だったのです。
こんな感じで走っていたそうです。
電車に手を振るdoironの姿。
1994年に廃止となったこの電車の軌道敷が
今も遊歩道や公園になって残っています。
ちょうど、「春日前」の駅のところには、
あずまやがあって
絶好の休憩場所になっていました。
時刻もそろそろお昼です。
たしかこの軌道敷の先のコンビニで、
以前にルネの練習会で走った時に
昼食を食べた記憶があります。
ルネの長Oクンが計画してくれた案では、
ここがちょうどお昼になるはずです。
という走る前の彼の説明時の言葉通りに
そのコンビニに着いた時に、
ちょうどお昼のサイレンが鳴り、
彼のち密な計画に驚いた憶えがあります。
当時の練習の様子を、
勉強し始めたばかりのイラストレーターで
地図と共に描いたこともありましたが
あのチラシはもう残ってないのでしょうかね。
もし今、描いたらもっと凝ったものになるのでしょうが、
残念ながらそこまでやる時間がありません。
ただ、いつかはこの渾身の街道歩きを
何らかの形にはしたいなあ
と思っているところではありますがね。
それにしてもあの時の練習会で
初めて熊野古道や王子のことを知ったdoiron。
今は一人、もしくは少人数で
濃密な歩行をしていますが、
あの練習会は今の街道歩きの
原点ともいえる練習会だったと思っています。
そんなことを色々考えながらやってきた
現代の王子ともいえるこの公園、
地域の人がチャリンコなどで
頻繁に通る道に面しており、
周りの人の目がたくさんありますが、
それでも気にせずお弁当を広げましょう。
続く。
紀伊名所図会に描かれている四ッ石地蔵の絵には、
地蔵の周りでたわむれる
子どもたちの姿や地域の人が描かれていて、
とても味のある絵です。
肥満気味の犬も描かれているのも愛嬌です。
この地蔵様は、絵では野ざらしですが
今は木の地蔵堂に入っています。
そしてこの地蔵堂の周りにある大きな石が、
この地蔵の名前になっています。
かつてこの地域にあった
三上院千光寺(今は廃絶)の礎石だと
そこの案内板にも書かれてありましたが、
最近の説ではその形から見ても
礎石とは考えがたいと言われています。
亀ノ川にかかる六ヶ橋を越えて、
田園地帯の中をこんな案内に導かれていきます。
地面にはこんな表示が施されています。
もしかして、この絵のワンコは
紀伊名所図会で四ッ石地蔵に描かれている犬を
意識しているんでしょうか。
それはちょっと考えすぎでしょうね。
道はやがて県道136号に出ます。
そこを渡ったところが
松坂王子跡です。
車に気を付けて渡りましょう。
早くから、地元の且来(あっそ)にある
八幡宮に合祀されたので、
ここには石の祠と地蔵だけがたたずむだけでした。
ちなみに且来という地名は、
神功皇后が皇子である
応神天皇を抱いてきたとき、
この地の人のもてなしが大変良くて、
「あした(旦)また来よう」
といったところからつけられた地名だとか。
紀州の人のもてなしの篤さを
うかがわせる地名となっています。
ここからしばらくは車の多い県道を南下します。
しばらく行くと左に道が分岐しています。
そこが、熊野古道の雰囲気を
たっぷり漂わせている石畳道への入り口です。
それがこれ。
熊野古道の写真によく出てくる
杉木立&石畳の道に似せて
作られてあるのでしょう。
ほんの少し県道を走る車の喧騒から離れて
雰囲気を味わいましょう。
そしてまた再び県道に出て、
クリーンセンターの煙突を目指して、
クモの形をしているというクモ池のふちを歩いていると・・・
またまた出ました。
徳本上人の名号碑です。
さすがに旅人の無事を祈る碑石です。
横にはご丁寧に「交通安全」の
看板も立てられていました。
まだしばらくは県道を進みます。
すると峠のところに現れるのが
「呼び上げ地蔵」です。
安政二年(1855年)の大地震の時に、
逃げ場を失った人々が
この峠の地蔵さんに呼び上げられて
助かったという逸話が残っていることから
つけられた名前だそうです。
あの「稲村の火」で有名な
安政の大地震はその前年の
1854年の出来事です。
でもわざわざプレートを張り付けて
1855年に訂正してあるところを見ると、
こちらを襲った津波は
安政南海地震によるものだったということでしょう。
地蔵の呼び上げで、
と言われていますが、
稲村の火の教訓が
この地にまで伝わっていて、
きっと人々を高台に避難させたのでしょうね。
親切なことに横に掲示されているプレートに寄りますと
ここの標高は20mだということです。
内陸地のこのあたりなら
これだけ高ければ大丈夫でしょうね。
しかし過去のこととはいえ、
実際にあったこんな話を目にしたりすると、
近い将来発生が予想されるという、
南海・東南海地震への
カウントダウンが始まっているようで不気味ですね。
過去を辿ってみると、
1605年の慶長地震、
1707年の宝永地震、
1854年の安政地震、
1946年の昭和南海地震といった周期で
大地震が起こっているんですね。
特に海沿いに住んでいる人は
皆さんそれぞれに
津波時の自分の呼び上げ地蔵を
設定しておく必要があるということですね。
この呼び上げ地蔵には
台石に文字が刻まれています。
それが、「志おみとうげ 大くり道」の文字だそうです。
後ろの大くり道は、
あの小栗判官の「小栗道」のことなんですね。
これもやはり文字がさほど普及していない時代の
聞き言葉で誤解されていた表記なんでしょうね。
そして真ん中には「三界万霊」の文字が
刻まれています。その文字について
その時は深く考えなかったのですが
後に熊野古道以外の場所で
ふたたび出会うことになります。
ここから坂を下って次の松代王子へと進んでいきます。
続く
田舎の県道を進んでいくと
一歩ごとに都会の喧騒を
離れていくような気がします。
逆に一歩ずつ熊野に近づいている
ともいえます。
道端には園芸種でしょうが、
初めて見るような植物も咲いています。
遠くに来たなあという感覚を増幅させてくれます。
昔の旅人も迫る山の景色を見ながら、
いよいよ熊野に踏みいるんだなと
気持ちを引き締めたことでしょう。
しかし、道はまだまだ続きます。
おお~直営農園です。
のどかですねえ。
閉まっているタバコ店の前にある
公衆電話も今となっては懐かしい光景です。
3体の地蔵がたたずむ
小さな峠を越えると
やがて阪和自動車道が見えてきます。
小さな集落の中を導き石に沿って進み、
阪和自動車道の下をくぐると
田園風景が広がります。
その田園の向こうの山すそに
張り付いている集落の中に、
神社が見えていたので行ってみました。
武内神社です。
この神社の境内には
「武内宿禰(たけのうちすくね)産湯の井戸」があります。
300年生きたという彼が
産湯に使った井戸の水は、
そんな彼の長寿にあやかろうと、
紀州徳川家が産湯に使っていたそうです。
300年も生きたのですから
これからの街道歩きの中でも
きっとまた出てくる名前でしょうから
憶えておきましょう。
その井戸には
今も水が湧いているとのことです。
doironも頭でも洗って
長髪にあやかろうと思いましたが、
井戸にはふたがされていました。
え、なになに?
長髪じゃなくて長寿?
失礼いたしました。
せめて「武内宿禰誕生所」
と刻まれた石に触れて
長寿を願っていきましょう。
それにしても300歳とは・・・
親父も真っ青です。
さぞや介護も大変だったことでしょう。
神社をあとにして、
池と阪和道の間を通る道を進んでいきます。
え~っと、確かこのあたりに、
徳本(とくほん)上人の石碑があるはず
と探してみますと・・・ありました、ありました。
あんな上の方から見下ろしています。
同行の人が見つけてくれました。
こういう時は一人じゃないのがありがたいですね~
この徳本上人の石碑といえば
たしか和佐王子の少し先の山の中にもありました。
「南無阿弥陀仏」と独特の書体で書かれた文字が
石に刻まれている名号碑です。
徳本上人は江戸時代後期に
和歌山の日高郡に生まれた上人で、
街道の各所に旅人の無事を祈願して
名号碑を多く残している行者です。
「とくほん」と言えば、
あの湿布薬を思い浮かべますね。
でもそちらは江戸時代前期の
医聖と言われる「永田徳本」という
漢方医の名前にちなんでいるそうです。
時代はもっと前です。
ランナーの故障の味方で
これまでのランナー時代に
走行の安全も見守ってくれていたと思ったら
残念ながら「とくほん」違いでした。
阪和道に沿って歩いていくと、
前方に小高い森が見えてきました。
地元の人が「向い山」と呼んでいる山です。
その下あたりは道路工事の最中でした。
どうしようかと迷っていると、
農作業の男性がやってきて
「そこの竹の山に登って行ったら祠があるで」
と教えてくれました。
やはり紀伊の人は親切です。
その祠というのが
「紀伊続風土記」が伝える
「奈久智王子」の場所なのです。
竹藪の中をかなり上まで登って探してみますと
あるもんですねえ。
あちこちに石仏が置かれてありました。
しかし結局登り始めてすぐのところにあった
ブロックに被せられたビニールをめくってみると
そこに王子跡がありました。
最初に訪ねた工事中の奈久智王子に次いで、
二つ目の「奈久智」です。
実はどちらがそうなのか
はっきりしていないそうです。
これまでに得た情報を整理してみますと、
上皇の御幸から離脱して、
日前宮に参り、
再度御幸に合流した定家の随行日記には、
「遠路山々の道を凌いで
奈くちの王子に参る」と書かれています。
とすると、地形的に考えて
前者の場所を指しているように思います。
しかし一方で、近所に
「王子谷(おいだに)」と言われる地名があったり、
古道を広く見下ろせる位置にある後者が、
王子っぽいという気もします。
もっともなのは、
時代と共に王子の位置も
変遷したんだという説があって、
doironはどうやらそれが
正解なような気がします。
先ほど道案内をしてくれた人が
農作業をしている横を
お礼を言って通り抜けていきますと、
またまた工事現場にさしかかりました。
工事の人に断わって、
無理やり通っていきますと、
ま新しい祠に納まっている地蔵がありました。
大勢の地蔵がひしめく祠と違って
ここは一体だけでした。
道路の穴ぼこに気をつけながら抜けていくと、
間もなく和歌山市と海南市の境界にさしかかります。
この電柱のところが境界です。
熊野街道が通過している市町村ごとに
この道を盛り上げるために
独自の取り組みをされているようで
海南市は熊野古道に
こういう石を建てているようです。
お、ここの水路にもメダカがいるようです。
自然が豊富に残っているんですね。
田んぼ道を抜け、集落の中へと道は続きます。
その集落にあるのが、
紀伊名所図会にも描かれている
「四ッ石地蔵」です。
途中、写真を撮ったり、
メダカを眺めたり、
両奈久智王子を探索して
ウロウロしながら歩いてきたので、
あまり参考にはなりませんが、
ここまで歩き始めて1時間40分が経過しました。
続く。
ひと息ついたところで
熊野古道の次の区間のブログをはじめましょう~
さて、doironの熊野古道歩きも
和歌山に入って4回目となりました。
当然ことながら回を重ねるにつれ
出発点まで遠くなってきます。
「熊野」の語源は「隈(くま)」という説があります。
この世の「隈(すみ)」という意味だそうです。
また死者の魂が「こもる」というところから
「くま」になったともいう説もあります。
いずれにしても、
遠く離れた地であることを表すだけあって、
都会からはどんどん遠くなっていきます。
「熊」が出没するという意味ではないんですねえ。
今回は伊太祁曽がスタートです。
電車だとJRで和歌山まで行って、
貴志川電鉄で伊太祁曽まで行くことになります。
それだと約1時間半を要しますので
今回、いろいろ検討した結果、
車で伊太祁曽まで行き
そこに車を停めて、
海南まで歩いてまた伊太祁曽に戻る
という手順で行くことにしました。
これだと、乗換ナビで計算するより
電車で1本以上早い時間から
歩き始めることが可能なのです。
伊太祁曽には駅の近くに
貴志川電鐡所有の広い駐車場があります。
そこは一日とめても200円と超お得な値段です。
スタートは8時53分。
今回は聖地熊野の入口ともいえる
一の鳥居跡がある海南に向かって出発しましょう。
先ずは駐車場から伊太祁曽駅の踏切を越え、
前回訪ねた神社に向かいます。
途中たまたますれ違ったのが、
貴志川電鉄の「たま自動車」。
派手なペイントが施されていました。
会社の社用車でしょうか。
一瞬だったので写真を撮れなくて残念です。
この電鉄会社は猫の「たま」を駅長にするなど、
非常に「たま」にテコ入れしています。
たまカフェ、たま自転車などもあるそうです。
時刻表にもたまがいます。
2012年には伊太祁曽駅の駅長も
三毛猫の「ニタマ」になりました。
猫嫌いにはまことに近寄りがたい電鉄です。
おっと話を歩きに戻しましょう。
伊太祁曽神社を右折して、
六地蔵に到着すれば
ここから、前回の続きの
熊野古道に入っていきます。
まず最初に向かうのが奈久智王子跡です。
のどかな田舎道を歩いていると、
道の脇に小さな池がありました。
どうもメダカを飼育しているようです。
メダカの学校です。
いや養メダカ池です。
それにしても
メダカを飼育してどうするのでしょうか。
メダカ好きのdoironとしては
とても気になるところですねえ。
おっと、話がまた脱線しそうです。
今日は古道歩きです。先を急ぎましょう。
あいかわらずこのあたりの地蔵さんは、
大勢でひしめいています。
手持ちの資料によりますと、
奈久智王子は街道のそばにあるのではなく、
「石垣と民家の狭い間を少し登る」
とありました。
ふむふむ、これは親切な説明だ
と思っていたのですが、
実際に行ってみると、
「石垣と民家の狭い間」は無数にありました。
資料ではこの神社を過ぎたあたりとなっています。
もしかしたらここかも、
いやあっちかもと
迷いつつも見逃さないように、
それらしいところは
一つ一つチェックしながら
進まざるを得ません。
隙間があれば登って行こうとしてしまいます。
猫でもこんな行動はしません。
しかし、王子跡のあるところには案内板もありましたし、
それなりにオーラを放っていましたので、
なあんやこんなことなら
安心して歩いとけばよかった
と悔やんでしまいました。
かなり時間を費やしてしまいましたからね。
こんな懐かしい看板の張られた家の
横の道(本当に狭い!)を登って行くと、
そこに奈久智王子がありました。
参拝しようと近づくと、
そこに一人の男性がいるではないですか。
どわっ、熊野古道の亡霊か、
と思いきやそこでブロックを組んでいる
一人の作業員でした。
どうやら奈久智王子は
老朽化に伴い改築工事をしているようです。
これまで置かれてあったと思われるところに
こんなブロックを組んでおられました。
これから訪ねる人は、
新しい社に納まった王子社を見ることになるでしょうね。
どんな王子になるんでしょうか。
ここに限らず、これまで歩いてきた道で
やはり見落としたりしたものは多くあります。
それはそのうちまとめて車ででも訪ねて
熊野古道忘れ物シリーズでも
書こうと思っていますが、
ここも「新装の王子跡」として
そのうちの一つに加えておくことにしましょう。
「奈久智王子」という名前は、
このあたりの旧地名が
「名草」であったことから、
その入り口あたりということで
名草の口で「名口」と言われたところから
ついた名前だろうと言われています。
後鳥羽上皇の御幸に随行した
藤原定家や藤原頼資が
その御幸の様子を
日記にしたものが残っていますが、
そんな彼らの日記の中に
この地のことを、定家は「奈くち」と書き、
頼資は「菜口」と書いているそうです。
文字もさほど一般には普及していない時代だから、
口伝えで聞いた地名の
漢字の選択もおおよそであったんだろうと思われます。
この奈久智王子が和歌山市の最後の王子跡になります。
一人さびしく偉大な工事をされている作業員さんに
ご苦労さんですと挨拶をして、元の道に戻りました。
今回の歩行は始まったばかり。
上々の熊野古道日和の中、
テクテクと進んでいくdoiron一行なのでした。
続く。
えーっと、ここのところシリーズブログが続きましたので、
ここらで一息つきましょう。
あらかじめ言っておきますが、
毎日歩行ブログを掲載しているからといって、
毎日歩いて遊んでいるわけではありません。
合間にはちゃんと、し、仕事もしています。
遊び中心ではありますが、
それなりに原稿書きもしながら
自分の世界を動かしています。
それにもましてdoironの周りの世界、
俗にいう「世間」もハゲしく動き続けていますね。
サッカーW杯の代表メンバーも決まりました。
代表入りを普通に予想されていて、
さほどサプライズでもなかった大久保選手。
年齢が年齢だけに多分最後のW杯でしょう。
本人も自覚しているから
きっと必死の活躍をしてくれるにちがいありません。
テレビの前でのW杯応援用のグッズを
用意しておかなくてはなるまいて。
陸上も短距離の桐生君や
十種の右代君も楽しませてくれますね。
他にも錦織、遠藤、大谷と
スポーツの話題も尽きません。
一方社会情勢はというと、
南シナ海をめぐる各国の動きが
とんでもないことになっていますね。
自分のことしか考えない輩は
どこにでもいるもんですねえ。
フェリー沈没、炭鉱爆発、憲法解釈、
宇宙からの帰還。あれやこれやあるもんです。
そうそうとんでもないことといえば、
doironの仕事もとんでもないことになっています。
記事を寄せている新聞社の所属する地域で、
一定の区域内を全面自動車通行止めにして、
音楽祭をやろうという企画が持ち上がってきて、
なんとその実行委員をやらされることになりました。
多分、広報的な仕事になるんでしょうが、
音楽祭などは多分に畑違いの仕事なので
一体どうなることかと今からドキドキしています。
実行委員会は商店が閉まってからの時間帯。
最近早寝のdoironにとっては
深夜ともいえる時間帯より始まりますので、
眠い目をこすりつつ参加することになります。
とほほ~。
とりあえず微力ではありますが、
地域おこしのお手伝いを
させていただくことにしましょう。
音楽といえば、「アナ雪」のブームはすごいですね。
「ありのままの~姿見せるのよ~」
と毎日聞かない日はありません。
では「ありのパパの姿は見せないの」
とミセスに聞いたら、
音楽祭の実行委員会で言ってみたら?
と冷ややかに言われました。
ブログはこのあと、気候のいい時期だけに、
遊べるときにはしっかり遊んでますから、
熊野古道シリーズとオジチャリ、
大和三山踏破、和歌山最高峰、
大阪最高峰と続いていきます。
もしかしたら合間に美術館、
博物館めぐりが入るかもしれません。
もう一度言います。
仕事もそれなりにちゃんとしてます。
最近は大いなる野望も抱きつつあります。
あ、もちろんトレも家のことも忘れず頑張ってますよ。
つまり、相も変わらず忙しい日々を送っているということです。
今が盛りのヒラドツツジが咲き乱れる景色の中、
巡礼街道の案内板を見ながら進んでいきます。
お、新手の案内かと思ったら、
住宅の名前でした。
それにしても「アパルトマン」とは、
大家の律儀な性格が垣間見えるような名前ですね。
売布神社を出てしばらくは、
池沿いの広い道の歩道を進みますが、
やがて住宅街に入ってゆき、
こんな手作り看板に導かれていくことになります。
この日はお天気も良く、絶好の歩き日和でした。
道のマンホールのふたがこれ。
「スミレの花咲く~♪」でおなじみの
歌劇がある宝塚ならではのデザインですね。
そんな足下や途中のこんな神社も
チラ見しながら歩いていき、
ようやく中山寺に到着しました。
ここは、聖徳太子が建立した寺で
西国三十三か所の第24番札所となっています。
昔から安産の仏様でよく知られるところです。
山門をくぐると、
本殿までの参道わきに、
干支にちなんだ仏様が祀られていました。
申年の大日如来様が、
清荒神に続いてここにもおられましたので
お参りをしておきました。
最後に本堂にもお参りをして
巡礼の締めくくりをしておきました。
さあ、これで巡礼街道は終わりです。
あとはジダンに教えてもらった風呂に行き、
ご褒美のビールが待っています。
線路を越えて176号に出て東進すると・・・
見えてきました。
「宝乃湯」です。
駐車場の片隅に沸いている源泉は、
あの有馬温泉と同じ成分だそうです。
ということは、日本三名湯のうち、
今年は下呂と有馬に続けて入ったことになります。
こうなったらもう一つの名湯である
「草津温泉」にぜひとも行かなくては
と思っているdoironです。
とりあえずテルマエロマエⅡで
勉強しておきましょうかね。
温泉にはじっくり味わって入りました。
どちらかというと、銀泉寄りの有馬の湯でしたね。
GW最終日ということもあって、
明日からの仕事に備えて英気を養っておこう
ということで、駐車場もいっぱいだったから
大混雑を予想したのですが、
湯船は意外にすいていました。
のんびりと露天風呂につかることができました。
風呂を出たらお待ちかねのビールです。
風呂の建物内の食堂は高級そうなので、
入るときにちらっと確認してあった
外のお店に行くことにしました。
そこで、これを購入。
気持ち良い風呂上りの
風に吹かれながらいただきました。
読書、歩きと同じような趣味の親父ですが、
さすがに糖尿を抱えているだけあって、
こんな楽しみ方はしなかったと思います。
う~ん、とりあえず親父を越えたかな?
こうして春の一日、
親父がかつて歩いた巡礼の道を歩いてきました。
その時聖地で親父は何を思っていたのか、
もう聞いても覚えてはいないようです。
同じ道を歩いて、同じ聖地を訪ねても、
祈ることや感じることは
人それぞれに異なります。
人は皆、それぞれの人生という名の巡礼道を歩いているのですから。
ゴールデンウィークの最終日に歩いた
ゴールデンウォークでした。
このシリーズ終わり
巡礼街道は、住宅街の間や
山の石段などをくねくねと通っています。
もしかしたら道を間違えたかもしれませんが、
まあ距離を稼ぐということで
そのへんは広い心で歩きましょう。
親父も歳の割に脚は達者だったとはいえ、
こんな傾斜の道を歩いたかははなはだ疑問です。
多分山方面には回らずに、
平地部分をショートカットして歩いたと思われますが、
今それを聞いても記憶の彼方に霞んでいるだろうから、
きっと正確にはこたえられないでしょう。
doironは山方面の住宅街を
登ったり下ったりのトレッキングをしました。
街道の途中には石の道標が立っています。
どれも「すぐ中山」と刻まれています。
道標の「すぐ」はあまりあてになりませんから、
現代のこんな案内や
本の地図をしっかり見ながら進みます。
やがて道は、中国自動車道を越えていきます。
あのよく渋滞することで有名な
宝塚トンネルのすぐそばに架かる橋が「売布橋」です。
おおっ、ようやく「売布」の字が出てきました。
こんな石段を登って高いところに出ると、
こじゃれた家の間から宝塚の街が見下ろせます。
この辺のお宅はなかなか良い所でした。
ただし、どの家も中に入っていくのに
階段が必ずといっていいほどあるので、
被介護人がいる家庭には不向きですね。
これらの家は山際に立っているので、
区画も地形に合わせて四角ではなく
道は複雑に入り組んでいます。
こんな分岐もたくさんあって、
道がややこしくなっていますが、ご安心を。
よく見ると電柱に小さくこんな手作りの
案内シールが貼られています。
一度見ると忘れられないシールなので、
後半は矢印だけになりましたがよくわかりました。
さり気なく道案内をしている様子は、
まるで獅子舞の前触れの紙垂のようですね~。
迷ったらその辺を探すと、
どこかに貼ってあります。
山の住宅地からかなり下に降りてきてから、
大きな池の横にある「売布神社」に到着しました。
カニカニツアーの時に書きましたが、
「売布神社」は全国に6社あります。
宝塚以外に三田に1社、丹後に3社、松江に1社です。
そのうち周辺の地名や残っていることや
伝説などから売布発祥の神社だろうと言われているのが、
丹後の木津温泉にある「売布神社」です。
その丹後の神社の祭神は
お酒の神様ともいわれる「豊宇賀能命」でしたが
ここはどうでしょうか。
境内の案内板に書かれてあった由来を読みますと、
祭神は下照姫神とその夫の天稚彦神であり、
この地に稲を植え、朝を紡いで
布を織ることを人々に教え、
暮らしを豊かにしたと書かれてありました。
丹後の神社と同じ祭神であることを
期待していたのですが違いました。
ただ主祭神が女性であることや
お酒と布の違いはあるけれど、
人々の暮らしを豊かにしたという点は
同じだったことから、
信仰の形態は微妙に変遷しているようです。
時代や地域とともに変わってきたんでしょうねえ。
この神社は街中にあるにもかかわらず、
なぜかとても静かで
いわゆるパワースポット的なところでありました。
この境内でかつて親父は友達と何を話し、
何を考えていたんでしょうかねえ。
あまり昔のことは話したがらない親父ですが、
若い時にこのあたりで働いていたことがあることは
ちらっと聞いたことがあります。
そんな当時のことに
思いをはせていたりしたのでしょうか。
売布神社を出て、
こんな立派な巡礼街道の案内板を見ながら
次に向かったのが、中山寺でした。
続く。
スタートは宝塚。
JR、阪急と乗り継いで
約1時間半で阪急の駅に着きました。
意外に遠いものです。
用意していった昼食と
駅中にある阪急のコンビニ
で買ったおにぎりを、
ハーフマラソンスタート会場裏の
武庫川の河原に座って食べてから出発することにしました。
この武庫川の下流が
例の事故現場です。
よくぞ、この時を迎えることができたものだ
とあらためて感慨深いものがありました。
歩き始めるとすぐに、
今年100周年を迎える
宝塚歌劇の劇場がありました。
歩道を歩いている人の中には
ヅカガールも散見されましたぜ。
手塚治虫記念館を左に折れて
道なりに山の方へ登って行くと、
有馬街道に出ます。
大きく分けて3本あると言われる
有馬街道の中でも、この道は
摂津から有馬へ向かう最も歴史がある
と言われている道です。
それだけにこんな地蔵なんかも
ところどころにありました。
歩きなれた街道によくある景色ですね~
道は山すそをくねくねと、
そしてアップダウンを繰り返しながら進み、
まもなく「清荒神(きよしこうじん)」の参道に到着します。
清荒神へはここを左折して、
山方面に登って行くことになります。
石標には「日本第一 清荒神霊社」の文字が刻まれていますねえ。
参道の途中には、店がいくつも並んでいます。
おお~こんなのもあるのですね~「づか乙女」。
華やかな和菓子です。
また、お蕎麦屋さんも数多くあるところは
石切さんの参道とよく似ています。
少し汗ばんできたころに
こんな横断幕がありました。
まだここから950mあるそうです。
普通に歩けたとはいえ、
高齢だった両親には
少なからずしんどい道だったでしょうねえ。
右側から合流してくる道が巡礼道です。
帰りはここに入っていくことになりますが、
いまは清荒神をまっすぐ目指します。
店の前に掲げられたこんなユニーク看板を見ながら進んでいくと、
禊(みそぎ)橋に出ます。
昔はこの下を流れる荒神川の水で
身を清めてから寺に参ったそうですが、
今はこの橋を渡ることがみそぎになるんだそうです。
ありがたや~。
奥の清澄寺本堂には、
右に申年生まれの人の御本尊である
大日如来がおられます。
doironが申年なので、
両親も毎年詣でていたそうです。
重ね重ねありがたいことです~
そして左の奥には清荒神王がおられます。
doiron家の台所にある小さな三宝荒神さんに
祀ってあるお札も毎年両親が正月に
ここでいただいてきたものでした。
最近はその風習も途絶えていたので
今回はdoironがいただいてきました。
本殿の裏には「荒神影向の榊」があります。
はい。
ここで問題です。
「影向(ようごう)」とはなんでしょうか。
記憶のいい読者の方なら覚えておられるでしょう。
今年の3月17日のブログに、
堺市の開口神社にあった
「開口大神影向の石」を紹介した時に書きましたね。
「影向」とは神や仏が姿を見せずに現れることなんですね。
・・・よくわかりません。
その影向の榊がこれ。
しっかりお参りをして山を下りることにしました。
元来た参道に戻っておりていきますと、
来るときには気づかなかった
「白蛇」さんがおられるお店がありました。
「写真撮影可」とわざわざ書かれていましたから、
折角なのでご紹介しておきましょう。
これが小さい方の「ちまきちゃん」。
そしてこれが大人の「おもち丸くん」です。
いずれも食べ物にちなんだ名前なのはなぜでしょう。
その先で道は蛇の舌先のように二つに分かれ、
一方は元来た道へ、
そしてもう一方は巡礼街道へと入っていきます。
次に目指すのが、丹後に次いで二つ目の
「売布神社」です。
鳥居の形はどうなのか、主祭神は誰なのか、
その由来は?
ネットで調べれば出てくるのでしょうが、
あえて下調べはせずに、行くことにしました。
続く
親父は部類の読書好きで、
これまで買いためていた本は、
本棚に入りきらず
衣装ケースの中に詰め込んでいます。
それをたまに引っ張り出してきては
車いすに座って読んでいるのですが、
最近はとみに目も悪くなり、
大きな虫眼鏡で読んでいるから
なかなか進まないようです。
92歳という年齢を考えると、
ためてある大量の本を
すべて読み切れるかどうか微妙なところです。
そんな親父のもう一つの趣味に
歩くことがあります。
つい3年前くらいまでは全然平気に歩いていたのですが、
ここにきて車いす生活になり、
建物の中も車いすで移動するようになっています。
そうすると一気に脚の筋肉が落ちるもので、
靴下をはかせたりするときの脚は
どんどん細くなっていき、
その衰えの速さに驚かされました。
歩けなくなる→筋肉が落ちる→ますます歩けなくなる
の悪循環です。
介護はたいてい一気にやってくるもんですね。
そんな親父の本箱を先日整理していた時に
こんな本が出てきました。
2007年の初版本だから
7年前に出版された本です。
その頃は親父も普通に歩いていたし、
友達と歩きに行ったりもしていました。
一方doironはというと
まだその頃は、ガシガシと走ったりしていたので、
歩きに一緒に行ったことはありません。
今思えばちょっぴり残念ではありますが、
最近見事に親譲りの趣味に高じているところを見ると、
歩きの趣味は知らず知らずのうちに、
遺伝伝授されていたようです。
恐るべし、DNAの陰謀です。
親父はもう普通には歩けなくなっているから
そんな本は不用だろうということで、
これはdoironが頂戴することになりました。
みると、本には付箋がいくつか張られてあります。
そのページをあけて見てみると、
あ~、たしかにここには友達と歩きに行ってたなあ
と記憶がよみがえってきました。
あちこちに折りしわもあって、
付箋のないページもきっと
歩きたかったのに違いないでしょうが、
夢をかなえるのは多分もう無理でしょう。
仕方がない、doironが引き継いで頑張りましょう。
なんてことを考えながら、
パラパラとページをめくっているときでした。
付箋が張られたあるページに目が止まりました。
そこには、巡礼街道を歩いて
宝塚に向かうコースのことが
書かれてあったのです。
宝塚と言えば、そうdoironの第二の生誕地です。
そこに向かって巡礼の道を行くとは、
よくできたコースではあります。
それを読んでいるうちに、
親父も歩いた中山寺、売布神社、清荒神をめぐって
宝塚にいたる約10キロのそのコースを
ぜひとも歩いてみたくなったので、
世間でいうGW最終日に
歩きに行くことにしました。
中山さんは、安産祈願でよく聞く神社だし、
売布神社も先日のカニカニツアーの時に行った
丹後の売布神社との関連も気になるところです。
清荒神は、元気な頃両親が毎年正月に
お参りに行ってたところです。
多分子供の頃に連れ行かれたような記憶も
うっすらあるのですが、
大人になってからは、
いずれも行ったことがない神社仏閣なので、
初めていくところと言ってもいいでしょう。
今度そのあたりを歩きに行くねん
とジダンにいうと、
「中山さんの『宝乃湯』がおススメですよ。」
と教えてくれたので、
その風呂がゴールとなるように
宝塚から逆コースで歩いてみることにしました。
親父がかつて歩いた巡礼街道。
今はもう友達とそこに歩きに行ったことすら
記憶にないようです。
では、息子のdoironが歩いてみたら、
果たしてどんな歩行になるのでしょうか。
では行ってみましょう。
次回に続く。
恐るべし近江商人の才覚の巻
ジダンが海と勘違いするほど大きなびわ湖。
それもそのはず、対岸は
春霞に隠れてはっきり見えていません。
で、その中ほどに、
人が住む淡水に浮かぶ島で
日本最大の「沖ノ島」があります。
雨が降った時の予備練習日を
翌日曜日に充てていましたが、
前日にしっかりと予定通りの練習ができたので、
その日は観光にあてることにし、沖ノ島に渡航しました。
宿の手配で宿泊者を沖ノ島に連れて行く
クルージングツアーがありましたので参加しました。
公共の渡し船もあるのですが、
湖岸の見所も合わせて回ってくれるので、
お願いすることにしたのです。
さすがに近江商人。
心をくすぐる商売が上手です。
乗ったのがこの舟。
どわー、「普通丸」とは~と思ったのですが、
善通丸でした。
途中、伊崎不動尊の沖をめぐっていきます。
ここは、琵琶湖に13mも突き出た棹の先端から、
7m下の琵琶湖に飛び込むという行事で有名です。
毎年8月1日に比叡山の僧侶たちが飛び込むそうです。
近江商人は、値下げをするときに、
「伊崎の棹から飛び込んだつもりで・・・」
と言ったとか言わなかったとか。
(絶対言ってないと思います)
沖ノ島の住民とみられる船頭が
舵から手を放して解説をしてくれます。
比叡山の僧侶には千日回峰を満業した
「阿闍梨」と呼ばれる僧侶がいる
というくだりでは、
「長年トレイルをやってるわしも
数えたらある意味阿闍梨かも」と
ジダンはつぶやいておりました。
風貌はしっかり阿闍梨です。
渡った沖ノ島は近江八幡市に所属しています。
25年度は全校生徒が9人だった
小学校や山の中腹にあるお寺を、
自転車が通るのがやっとというような
路地を抜けて見て回ります。
そういえば、ここの島民は
やたら三輪自転車に乗っています。
高齢化しているんでしょうねえ。
おお~、消防は舟です。
おお~、トンビが乱舞しています。
おお~、3色のしだれ桜です。
おお~
猫はもうええ加減にしてちょうだいと言いたげでした。
25年度のこの島の人口は330人。
半漁半農の暮らしだそうです。
路地裏で見かけた魚の調理をされていた
お母さんと話をしました。
これは「イサザ」と言われる魚だそうです。
島の中心部をぞろぞろ歩いて、
港に戻った時に
お土産の屋台が出ていました。
そこでイサザの佃煮が売られてました。
ん?沖島よそものコロッケなる看板が・・・
これは買わなくてはと思ったのですが、
出航の時間が迫っていました。
注文してから20分かかるそうです。
う~ん、よそものにはなかなか食べられません。
近江商人の陰謀がこんな離島にまで・・・
残念!
帰りの船はわざわざ遠回りして、
沖ノ島が仏像の寝姿に見える
という位置まで回ってくれました。
なるほどねえ。
ジダン阿闍梨も頷いておりました。
陸に戻ってからは、
日曜夕方の渋滞を避けるべく、
早々に帰路につきました。
あ、そうそう途中で寄ったお土産屋さんでは、
こんなものがあったので、ジダンに勧めておきました。
doironが買ったのはこんな巾着袋。
「刑務作業所製品」のお店で売られてました。
何でも商品にしようという
近江商人の心意気を感じる商品です。
(それにしても、「獄」「PRISON」とは
ちょっとブラックですねえ)
さて、今回の旅の各所で
ヒコニャンで可愛い子ぶりながらも
陰謀の限りを尽くして
影のように付きまとっていた近江商人。
その近江商人の行動哲学で
有名なのが「三方よし」という考え方です。
商売というものは売り手の都合だけで
商いをするのではなく、
買い手が心の底から満足し、
さらに商いを通じて地域社会の発展や
福利の増進に貢献しなけりゃならん
というものです。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という考え方です。
今回の二日間、いろいろと
近江商人には翻弄されましたが、
終わってみれば
「ランよし、バイクよし、観光よし」
のまさに「三方よし」の合宿だったことを考えると、
近江商人の才覚たるや
ただ者ではなかったな
と感心しつつ、ドジ旅日記近江商人の陰謀編めでたくお開きです。
次のドジ旅は秋になると思いますが、
日々のブログの中で
ジダンブログとの気まぐれコラボ企画
「泉大津の自然ほっつき百選」
も始まりますので、そちらもよろしくお願いします。