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心から楽しまないとねえ。

大和三山ミステリー歩行6

2014年05月31日 21時24分58秒 | ウォーキング

八釣山地蔵尊のある下八釣町から



木之本町を抜けていきます。
とても味わいのあるのどかな道で、
道端では大勢のジダンもたわむれています。



振り返ると、長く寝そべったように横たう
天の香久山が昼寝をしているようでした。



道は高殿町に入っていきます。
この「高殿」という町名こそが、
日本で最初で最大の都城・藤原京の存在を裏付ける
言葉のタイムカプセルだったのです。
かつて字名に「高殿」という地名が含まれていた地域で、
「おおみやど」といわれていた
小高い土壇があったそうです。

昭和10年に実施されたそこの発掘調査から
藤原宮跡の所在が確認されていったとのことです。



694年に飛鳥から遷都され
710年に平城京に移るまで
ここが日本の政治の中心地だったそうですが、
今から1300年くらいの前の都の位置が
昭和初期までよくわからなかったのも、
この地域にまつわる様々なミステリーに
埋もれていたのかもしれません。

高い御殿が建っていたから
「高殿」の地名が残っていたんですね。

ここでは今も発掘は続いています。



この場所に都を置いた理由の一つに、
大和三山をすべて望める地であったことが挙げられます。

これが畝傍山。



そして香久山。



最後に耳成山です。



そしてもう一つ理由があるとも言われています。
それは大和三山が形成する
二等辺三角形の頂点である畝傍山と
この藤原宮をつないだ直線上に
三輪山があるという説です。

さらにもっとマニアックに、
周辺に点在する春日社などを
直線でつなぐと剣を持った古代人の姿になる
というものや、
星座のオリオン座になぞらえる説まであります。



未知の部分が多いだけに、
様々なそれらしい憶測が渦巻いています。

ここがその高殿があったという
大極殿があった場所です。



持統天皇と文武天皇が統治した
藤原宮であることを示す石碑です。



藤原京を治めたのはもう一人
元明天皇もおられますが、
その名はありませんでした。

「万葉集」の鴨君足人の注に、
「藤原宮大極殿の地を鴨公と言う。」とあります。

確かにそこには「鴨公神社」という玉垣がありました。



鴨とは変わった名前ですが、
「鴨長明」といえば、
ははーんと思われると思います。

藤原宮址を後にして
車が頻繁に通る道路を横切り、
桜並木の続く醍醐池のふちを歩いていきますと、



池の北西の隅に標高72.6mの四等三角点がありました。



地籍調査の測量基準点ですね。

ちなみに三角点は五等まであるのですが、
五等は海の岩礁などに設けられるものだそうで、
ほとんどが四等にされて
現在は沖縄の小島3か所に残るのみだそうです。

池の堤防を降りて醍醐の町の中に入っていきます。



ここまで来ると、最後の耳成山も
かなり間近に見えてきます。

耳成山は標高139.2mで、
大和三山の中では最も低い山です。

火山活動と浸食によってできた山だといわれています。

1説には、もっと小さな小山だったのを
土を盛ることで大きくし、
大和三山が二等辺三角形になるように
造営された山であるとも言われています。

それゆえか三山の中ではもっとも形の整った山容を持っており、



人の頭になぞらえて
耳が無い山のように見えるところから
その名前がついたといわれています。

ちなみに万葉集では
「耳梨山」とも言われているそうです。

また、同様に麓にはかつて
「口なしの井戸」や「目隠し川」もあったそうです。
耳と口と目の名前がついてます。

さすれば、本薬師寺にあった
「聞かざる石」もあながち関係がないともいいきれませんね。

山の麓には池があって



公園が整備されています。

そこで小休止した後、
いよいよ大和三山の最後の山に登山開始です。

続く。