ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

尼崎慕情 ノスタルジー歩行

2015年07月20日 21時30分29秒 | ウォーキング

街中を歩くときの地図の見方と
山でのそれとはかなり異なる。

山は地形図であり高低差も読めるが、
街にはそれがない。
しかも目印となる建物や
会社の名前が変わっていたりすると
ハゲシク混乱するわけだ。

いつも「ナビをセットして・・」
と書いているが実際にナビに導かれて
歩いているのではない。

ただ、後で歩いた道をなぞるためと
距離を測るためで、
正確にいうと
「GPSを用いて踏跡を記録するためのアプリを立ち上げて」
というのが正解かもしれない。



でも面倒なので、これからも
「ナビをせっとして」と書くことにしておくから
そこんとこよろしく。

さてようやく7キロ地点くらいで、
新幹線の高架と名神高速の高架を
混同していたことが判明し、
ここにきてやっと手元の地図と
頭の地図がシンクロした。

自分の立ち位置と向いている方向さえわかれば
こっちのものだ。

だてに2年もほっついてないからね。

今度は方向を間違えないぞと、
信念を持って一直線に

「若王寺遺跡」に向かった。

「若王寺」これは「なこうじ」と読む。
実際にその名前のお寺があったそうだが、
今はもうない。
寺はなくなったが地名は残った
というわけで、戦で焼失した
「大雄寺」=「浜寺」が語源となっている
「浜寺」とよく似た生い立ちを持っている。

その「若王寺」の遺跡が
関電の敷地内のようなところに残されている。



ここから出土したものを総合的に考えると、
製鉄に携わる人たちが
多く住んでいた地だったそうだ。

今も数ある小さな町工場のルーツのようなものじゃね。

川の生きものたちや
市の花であるキョウチクトウをあしらった
マンふたを眺めながら



住宅街を進んでいくと、



道の右側に
「伊居太神社」が見えてきた。

ここ。



ここでは「いこた」神社と読むが、
論社、いわゆる兄弟社である
池田市の神社は同じ字を書いて
「いけだ」神社というそうだ。

名前のいわれはちょっと調べたところでは
よくわからなかった。

その先に緑の茂る「近松公園」があった。



この公園の西側には廣済寺があり、



そこに近松門左衛門の墓があるため
親しみを込めてこんな名前になったのだろう。

近松と言えば、
二年前に行った露天神に像のある
「お初徳兵衛」を題材にした
「曽根崎心中」を書いた人ですな。



あ、でもそのあと熊野街道を歩いた時に
たしか高津宮の近くにも彼の墓があったはず。

その時に調べたところでは
両墓所とも近松の過去帳があり、
墓石も同時に建てられたとみられることから、
国の文化庁は両所を墓所として
史跡に指定しているんだそうだ。

大阪の墓がこれ。



そして尼崎の墓がこれ。



狭くて写真を撮りづらかった大阪の墓所に比べ、
こちらの墓所は広々としていたよ。

こちら尼崎の地元では、
この近松墓所にさらに親しみを込めて
こんなマンふたを作っていたり、



「近松」の文字をつけている店などもあったとさ。

さあ、これで当初の目的地訪問は全て終わった。

こんな近松ロードと名付けられた商店街?を通り、



向かったのがJR塚口駅。



ここで今回の歩行は終了である。
暑い中10キロ強を歩いた。
ここからJR宝塚線に乗り、
車をとめてある尼崎までひと駅である。

久しぶりに訪れた尼崎は、
子供の頃のかすかな記憶とは
全く様変わりしていた。

競艇が大好きだった大叔父さんと
あの頃によく行った銭湯や、
かき氷屋さんなんかも
きっともうなくなっているだろう。

そんな親戚の思い出の場所は
茨木や伊丹にもあって、
そのうちにまた訪ねて行ってみようと思った
今回のノスタルジー歩行であった。

しみじみと終わり。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿