五百羅漢の千の瞳に見つめられつつ
高取城を目指した。
ここは近鉄の
「てくてくまっぷ」
にも載ってるメジャーなコースなのに、
登り始めてからここまで
一人の登山者にも会っていない。
聞こえてくるのは、
「ポポ、ポポ」と山にこもるような
ツツドリの鳴き声と
おなじみのウグイスの声、
風の音、自分の歩く足音くらいである。
遠くでピーッと鹿の鳴き声も
聞こえたような気がしたぞ。
こんな石を見ながら、
ヒノキ林の急な坂を上ると、
一旦車道に出る。
そういえば壺阪山の駅には
バス停の横にタクシー乗り場もあって、
そこに壺阪寺までと
高取城までの定額料金が書かれてあったなあ。
こんな荒れた山の車道を
タクシーで登る人もいるようなのに、
この日は見事に誰もいない。
道はここからすぐに再び山の中に続いていく。
最近は義父の墓の建立や
実の両親の墓の整備で
石のことをあれこれ勉強する機会が多い。
こんな石が立っていて
これくらいの石ならどれくらいするんやろうなあと、
そんな目で見てしまう。
そして再び車道に出たところから、
石垣のある山道に入って行く。
いよいよ本丸に突入というわけだ。
高取城は南北朝時代に築城された山城で、
江戸時代には植村氏が城主として
改築を重ねてきた。
幕府が仮想敵に対して、
平城であった郡山城が落ちた時に、
立て籠もる山城として
常に普請を触ることができる
常普請を許されていたそうだ。
また設計は複雑を極め
石垣は複雑に迷路のように築かれたという。
今は、苔むして各所に設けられた山門も
雑草に覆われたようになっている。
かつて、これらの城を構成する
各部署に押し寄せたのは、
もしかしたら敵よりも雑草対策が
大変だったかもしれない。
たかだか2万5千石の植村氏の苦労がしのばれる。
石垣の間をくねくねと歩き、
高い方へ高い方へと進んでいくと、
そこが本丸の跡。
そこには三等三角点が置かれている。
奥穂高岳の山頂には3mほどの石積みがある。
これは日本第二の高峰である
白根山北岳の標高3192mを
超すために作られたそうだが、
人工構造物は標高の対象にならないことから、
奥穂の標高は今も3190mのままである。
しかしここ高取山では
周りを石垣で囲まれた地面に
三角点が据えられている。
まぎれもなく人工構造物なのに
これはいったいどうなっているんだろうか。
調べてみたけれど
その謎を解いてくれる記述は見つけられなかった。
自撮りをしたあと、
その三角点から少し降りた山頂広場にいくと、
こんな山名板があった。
「大台ケ原 大峰山」
が見えるようだ。
そちらを見てみると、
肉眼ではうっすらと見えていたけど、
写真にはあまり写らなかったな。
ん?富士山も見えるのか?
いやいや、これは富士山の方角であることを
示すだけのものだろう。
この高取城は、
美濃の岩村城、
備中の松山城と並んで
日本三大山城のひとつといわれている。
かつて城内には多くの人がいて、
山の中に「おのおのがた、お昼でござる」
とか
「殿さまのおな~り~」などという声が
響いていたんだろうなあ。
この日は歩き始めてから
ここまで誰にも合わなかったし、
ここにも誰もいない。
広い古城内にdoiron一人なわけである。
じっとしていると、
樹木の葉擦れの音が
当時のお城のざわめきのようにも
聞こえてきそうで、
どことなく不気味な感じだ。
千の瞳に見つめられて
ゾクッとした五百羅漢のところと
よく似た感じである。
ここまで歩き始めて約70分。
夜の飲み会前に風呂に行くことを考えたら、
そろそろ下りていかねば
ならない時間でもある。
逃げるようにその場を後にした。
バイバイキ~ンと続く。
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