ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

ドジ旅日記豊臣秀吉の陰謀4

2019年10月13日 23時29分57秒 | ウォーキング

巫女たちの後ろでその行方を見ていると、
どうも本殿の前に入っていくようです。

ああこれは必ず何か神事があるのでしょう。
拝所のあたりで少し
うかがっていたのですが、
ただ座っている姿が
見えるだけで何も始まりません。

すると、doironの傍らから
茶々様によく似たような美人が
話しかけてきます。

「11時から命日の例祭が行われるようですよ」
とのことです。

「ははあそうですかあ。」と承っておきました。

でも11時までにはまだ
20分以上あります。
例祭の様子はネットで伺いましょうと諦め、



茶々様にも「大儀であった」と
さよならを言って
次に進んでいく我々なのでありました。



次は「方広寺」です。

ここは秀頼が大仏を再建するとともに
鐘楼も作りお披露目しようとしたところです。

確かにでかい鐘です。



doironがこれまで見かけた中でも
最大級の大きさの鐘です。
これを秀頼はお披露目しようとしたわけですが、
実は家康の陰謀がここにはあったのです。



鐘に刻まれた文字の中に
「国家安康」と「君臣豊楽」
という部分があったのです。

家康という言葉を切り刻み
豊臣という言葉を讃えたような表現です。
これに家康が難癖をつけ、
大仏開眼を遅らせたという事件がありました。

鐘のこの部分に文字が刻まれています。



その後この対立は深まり、
大坂冬の陣へとつながっていった
ということです。

ああ、家康の陰謀もなかなかのものですな。
そんな現場を目撃した我々でした。
では移動していきましょう。

方広寺の裏手の方に出ていきますと、



そこに方広寺の大仏殿跡があります。



この大仏殿は秀吉が建てたのですが
大地震で大破してしまいました。
そして今度は秀頼が立て替えたのですが、
先程の梵鐘の事件で大坂冬の陣が起こり、
豊臣氏が滅亡してしまいます。
しかし大仏は残っていたので、
奈良の大仏殿をしのぐ壮大な
お堂にのこっていた大仏は
「京都の大仏っつあん」と
親しまれていたようですが、
それも1798年の落雷で
壊滅してしまいました。



豊臣の陰謀、徳川の陰謀が
渦巻く大仏も大自然の力の中では
見事に砕け散ってしまったのです。

ここはちょうど豊国神社の真裏手です。
神社の方からは音楽が聞こえ始めました。
秀吉の縁日に伴う奉納が
始まっているようです。



大仏殿跡から少しまちなかを
進んでいきますと、今度は
妙法院門跡という施設に出ていきます。



門跡というのは皇族・貴族の子弟が
歴代住持となる別格の寺院を
指して言います。
非常に名門な寺院なんですが、
ここも秀吉の関係のある施設で、
先程の大仏殿で千僧供養をするときに、
ここの庫裏が食事の用意をした
といわれています。



邸内は静かな施設でした。





出入り口の所の石畳には、
堀跡のある石が敷かれていますねえ。



これは何なのか、調べてみたけど
わかりませんでした。



多分城の石垣のように
用意した藩の印のような
感なんですがねえ、
よくわかりません。

門跡を出て南下し、
京都国立博物館前の交差点に出たら
それを左折していきましょう。

その先には京都女子大学、高校などの
施設が並んでいます。

も、もしかしてジダンの闇の目的は
施設見学と言いつつも
ここの見学?京都の町をひょこひょこ歩く
女子大生や女子高生に
「おこしやす」と言ってもらう
という陰謀を働かせたのでは
ないでしょうねえ。

若い女性が何人も歩く坂道を、
東向いて歩いていきます。



その先にあったのが

「新日吉神社」です。



これはなんと読むかわかりますか。
「しんひよしじんじゃ」ではないですよ。

これは「いまひえじんじゃ」
と読むのです。

徳川幕府が豊国神社と豊国廟の間に
建てて秀吉の墓参りを
邪魔したといわれていますが、
それはそうではなかったようです。

続く



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