ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

淀川完歩34 懐かしの赤川鉄橋

2016年06月11日 21時13分21秒 | ウォーキング

この「せんにん塚」のあるところで



昭和20年6月7日の大空襲の時に、
戦死した数万人の中から
身元不詳の千数百人の遺体を
ここに集めて廃屋の木材で
荼毘にふしたそうです。

おお~今は高齢者が集まる
平和な公園の片隅で、
その昔なんという悲しい出来事が
あったのでしょうか。

各地を旅すると
そんな人の心の浮き沈みまで
時折大きくかぶさってきたりしますねえ。

この「仙人つか」の隣には
平和祈念の地蔵もおかれています。



さて、ではdoironも
非核だけでなく
平和そのものを祈りつつ
先へと進みましょう。

おっ、ここにはワンド群の
自然と生き物の様子を
「イタセンパラ」を中心に
説明してあります。



一時はこのワンドに住めなくなった
イタセンパラも昨年から
住めるようになった
と書かれてあります。



いろんな研究などから
生育環境が復活されたんでしょうねえ。

いやいやほんとに
関係者の努力に
頭が下がりますねえ。

わんどはまだまだ続き、
多くの人が釣りを



楽しんではるこの辺りは
距離標にして12kmとなりました。



前方には赤川鉄橋の
橋が見えてきています。



と、このとき川と反対側の
堤防上にこんな碑がありました。



「赤川廃寺」と書かれています。

河原のこういう社寺は
当時水害の多かった地域の
守護として活躍している
お寺がたくさんありました。

しかし明治の大改修などで
河川をまっすぐに
引き直すなどの作業で
消えたお寺はいくつかあります。

前回の14.5キロ地点くらいには
「橋寺廃寺跡」もありました。



いずれにしてもあの
明治18年の大水害以来、
川の付き方や管理の様子は
ずいぶん変わっていったようです。

右に広がっている
ワンドの景色がなくなり始めるころ、
この先に通っている
「赤川鉄橋」のすそのところまで
やってきました。



この線路はかつて杉本町から
新大阪まで通っていた
「城東貨物線」の一部です。

阪和線に乗ってたら、
この線路どこへ行くねん
みたいな線路が
町中に向かって伸びていたのを
思い出します。



その延長上にあるこの橋には、
かつて線路が走る部分の横に
人が渡るための木の橋が
架かっていました。



いまはこんな風に
複線化が図られていて、
木の橋もありませんでしたね。



開通を目指す
「おおさか東線」にするために
複線化がすすめられ、



2013年にこの木の橋は
通行止めになったそうです。

人間橋が通行止めになるときは、
一つの橋に鉄道橋と
人道橋の二面を併せ持つ
珍しい風景がなくなるということで、
マスコミも大きく取り上げ
多くの人々が惜しまれつつ
集まったそうですな。

実は、doironもかつてこの橋の
たもとには知り合いのうちがあって
30年くらい前に訪れたことがあります。

そのときはこの木の橋を
半分くらいまで渡った
記憶がありますね。

そんな30年間に
いろんな思いや出来事がありましたが、
ここにきてあの時の記憶が
壊れていた時計が
動き出すように
ふいにつながった気がしましたね。

そんな懐かしい橋を過ぎたら、
住所は都島区のほうに入っていきます。

赤川鉄橋の少し先に、
人も車も渡れない橋が
1本かかっています。



これは、大阪市の上水道を
運ぶためのものです。

水道水を運ぶために
ここまでの橋が必要なんですねえ。

さあ、もうここまで来たら、
自転車選手やマラソンランナーの
姿は少なくなりました。



道の草も結構茂っています。
こんな状態でロードバイクに乗ったら、
道端の草が引っ掛かって
タイヤが外れたりしそうです。

遠くを見たら、
大阪市内のビルも
いっぱい見えてきました。



そしてそう、doironが指をさしているのは、



毛馬閘門の近くにある
淀川大橋の特徴のある姿です。

写真はそばにいた人に頼んだり
マル秘チェックの方法で
タイマー撮影したりします。

先日歩いた大川の終着地点が
いよいよ目の前に見えてきました、



と続きます。