投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 9日(木)12時27分59秒
ニコライの日記は、そのまま短編映画のシナリオにでもなりそうな部分がたくさんあって、ついつい読み耽ってしまうのですが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その6)で紹介した部分の続きです。(p222以下)
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一九世紀ロシアの知識人には、自国の支配体制の柱であるロシア正教会から真理の声を聞いているという実感はすでになかった。「イコンが役に立つのは壺の蓋としてくらいのものだ」とベリンスキーは言ったという(ピリントン『イコンと斧』)。その点ではかれらは「異端者たるヨーロッパ人」に近いように、一見みえる。
しかしかれらは、宗教はもっぱら「心の問題」にかかわる一種の道徳なのだとは考えていなかった。そういう世俗化された世界観の持ち主ではなかった。
ロシア正教が近代化されない宗教であり、それがロシア文化の最大最深の共通の器であったことの当然の結果として、反教会の知識人にとっても宗教とは、あくまで全存在と永遠の生命にかかわる答えであった。それは良心や社会道徳を保障する制度ではなかった。だから、かれらが国教正教会を拒否してあこがれ求めた「社会主義」は、かれらにとって、経済学説ではなく、万物を救済する教えとなった。ドストエフスキーは、ロシアにおいては真剣に神の存在を問わずにいられないがための無神論者がいるとくりかえし語ったが、実際そういう、神なしではいられない無神論者がたくさんいた。
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この後もドストエフスキーの専門家である中村健之介氏らしい分析が続きますが、私はロシア文学に疎いので、あまり理解できません。
理解できないまま引用するのも気が引けるので、3頁分ほど省略して、ニコライと三井道郎神父のやり取りに移ります。(p225)
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ニコライにとって、神の世界は神学上の虚構ではなく、生動しているすばらしい実在であった。そしてキリスト再臨の前に現われてこの世を悪で充満させるという「アンチキリスト」も実在だった。うそのつけないシメオン三井道郎神父が、叙聖されるにあたってニコライに「実はアンチキリストの存在が信じられないのです」と告白した。ニコライは「なんということだ」と驚いている。
だから神の世界を讃えてそれに触れる儀礼「奉神礼」は、なくてはならないことであった。奉神礼をあげることが、神に仕える者の勤めであり、喜びなのである。病気でこの「お勤め」が果たせないとニコライは気が沈む。「ふつうの主日〔日曜〕でも奉神礼をしないでいるとたんへん気が沈む」(一九〇四年四月一〇日)。逆に、つらいことがあっても、奉神礼によって気持ちが立ち直る。奉神礼によって「翼が現れて……気分がすっかり変わった。これが神の助けでなくて何だろう」(一九〇〇年五月三〇日)
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三井道郎(みい・みちろう、1858~1940)は長縄光男『ニコライ堂の人々─日本近代史のなかのロシア正教会』(現代企画室、1989)の主人公で、南部藩士の家に生まれ、駿河台の正教神学校を経てロシアに留学し、キエフ神学大学を優秀な成績で卒業した人です。
長縄氏によれば、
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道郎はキエフの神学大学における日本人留学生の皮切りであったことから、彼は大学内のみならず、いまだかつて日本人というものを見たこともない一般社会の人々にとっても「唯一の日本人の標本」として大変に珍しがられたという(瀬沼恪三郎「故三井神父の追憶」『正教時報』昭和十五年三月)。痩せぎすではあったがロシア人に伍しても決して見劣りすることのない六尺を優に越す長身、好男子に属する風貌、それに何よりも磊落な性格が人に愛され、学の内外を問わず多くの人々と親交を結んだ。後にキエフに学んだ者たちに行田義雄、西海枝静、小西増太郎、それに瀬沼らがいるが、彼らは皆、三井の遺した人脈に拠り余恵にあずかることもしばしばであった。
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とのことで(p95)、1858年生まれで「六尺を優に越す長身」ですから、相当目立った存在だったようですね。
長縄氏の『ニコライ堂遺聞』(成文社、2007)の表紙に再建当時のニコライ堂の写真が出ていて、前列中央・セルギイ府主教の右横に日本人離れした風貌の長身の人物が立っていますが、これが三井道郎です。
http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-915730-57-3.htm
http://www.seibunsha.net/books/57l.jpg
三井のような正教会のエリート的存在であっても、ニコライにとって当たり前であった正教の核心部分は理解できなかった訳ですね。
三井道郎(1858~1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%81%93%E9%83%8E
ニコライの日記は、そのまま短編映画のシナリオにでもなりそうな部分がたくさんあって、ついつい読み耽ってしまうのですが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その6)で紹介した部分の続きです。(p222以下)
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一九世紀ロシアの知識人には、自国の支配体制の柱であるロシア正教会から真理の声を聞いているという実感はすでになかった。「イコンが役に立つのは壺の蓋としてくらいのものだ」とベリンスキーは言ったという(ピリントン『イコンと斧』)。その点ではかれらは「異端者たるヨーロッパ人」に近いように、一見みえる。
しかしかれらは、宗教はもっぱら「心の問題」にかかわる一種の道徳なのだとは考えていなかった。そういう世俗化された世界観の持ち主ではなかった。
ロシア正教が近代化されない宗教であり、それがロシア文化の最大最深の共通の器であったことの当然の結果として、反教会の知識人にとっても宗教とは、あくまで全存在と永遠の生命にかかわる答えであった。それは良心や社会道徳を保障する制度ではなかった。だから、かれらが国教正教会を拒否してあこがれ求めた「社会主義」は、かれらにとって、経済学説ではなく、万物を救済する教えとなった。ドストエフスキーは、ロシアにおいては真剣に神の存在を問わずにいられないがための無神論者がいるとくりかえし語ったが、実際そういう、神なしではいられない無神論者がたくさんいた。
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この後もドストエフスキーの専門家である中村健之介氏らしい分析が続きますが、私はロシア文学に疎いので、あまり理解できません。
理解できないまま引用するのも気が引けるので、3頁分ほど省略して、ニコライと三井道郎神父のやり取りに移ります。(p225)
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ニコライにとって、神の世界は神学上の虚構ではなく、生動しているすばらしい実在であった。そしてキリスト再臨の前に現われてこの世を悪で充満させるという「アンチキリスト」も実在だった。うそのつけないシメオン三井道郎神父が、叙聖されるにあたってニコライに「実はアンチキリストの存在が信じられないのです」と告白した。ニコライは「なんということだ」と驚いている。
だから神の世界を讃えてそれに触れる儀礼「奉神礼」は、なくてはならないことであった。奉神礼をあげることが、神に仕える者の勤めであり、喜びなのである。病気でこの「お勤め」が果たせないとニコライは気が沈む。「ふつうの主日〔日曜〕でも奉神礼をしないでいるとたんへん気が沈む」(一九〇四年四月一〇日)。逆に、つらいことがあっても、奉神礼によって気持ちが立ち直る。奉神礼によって「翼が現れて……気分がすっかり変わった。これが神の助けでなくて何だろう」(一九〇〇年五月三〇日)
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三井道郎(みい・みちろう、1858~1940)は長縄光男『ニコライ堂の人々─日本近代史のなかのロシア正教会』(現代企画室、1989)の主人公で、南部藩士の家に生まれ、駿河台の正教神学校を経てロシアに留学し、キエフ神学大学を優秀な成績で卒業した人です。
長縄氏によれば、
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道郎はキエフの神学大学における日本人留学生の皮切りであったことから、彼は大学内のみならず、いまだかつて日本人というものを見たこともない一般社会の人々にとっても「唯一の日本人の標本」として大変に珍しがられたという(瀬沼恪三郎「故三井神父の追憶」『正教時報』昭和十五年三月)。痩せぎすではあったがロシア人に伍しても決して見劣りすることのない六尺を優に越す長身、好男子に属する風貌、それに何よりも磊落な性格が人に愛され、学の内外を問わず多くの人々と親交を結んだ。後にキエフに学んだ者たちに行田義雄、西海枝静、小西増太郎、それに瀬沼らがいるが、彼らは皆、三井の遺した人脈に拠り余恵にあずかることもしばしばであった。
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とのことで(p95)、1858年生まれで「六尺を優に越す長身」ですから、相当目立った存在だったようですね。
長縄氏の『ニコライ堂遺聞』(成文社、2007)の表紙に再建当時のニコライ堂の写真が出ていて、前列中央・セルギイ府主教の右横に日本人離れした風貌の長身の人物が立っていますが、これが三井道郎です。
http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-915730-57-3.htm
http://www.seibunsha.net/books/57l.jpg
三井のような正教会のエリート的存在であっても、ニコライにとって当たり前であった正教の核心部分は理解できなかった訳ですね。
三井道郎(1858~1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%81%93%E9%83%8E
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