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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その7)

2020-01-07 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 7日(火)10時35分59秒

1989年(明治22)というと、もちろん大日本帝国憲法発布の年ですね。
ニコライの日記にも憲法発布の2月11日に、

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 日本にとって厳粛にして重要な日─憲法の発布の日。天皇はその統治権の大半を国民に譲った。憲法にはどこにも血がつきものだ。ときとして血が河のように流される。ここではそれが障害なく穏健に与えられ、同じように穏健に受け入れられている。
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で始まる長い記事があり(第2巻、p248)、非常に興味深い内容です。
また、正教会にとっては、遡ること五年前の1884年3月に起工された復活大聖堂(ニコライ堂)の工事が終盤に入っており、二年後の1891年2月に竣工、3月8日成聖式執行となります。
さて、ニコライの日記、1889年(明治22)9月12日の続きです。
ニコライは9年前のロンズデールとの思い出を書いた後、

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そのかれが一昨日わが宣教団を見学に来たので、見せてやった。足場の上に連れてゆき、質問に答えて宣教団のことを話してやり、教会の統計表と給料表とをあげた。きょうもまたいくつか説明してほしいというので、説明してやった。説明せずにいられないではないか。「他会派と比較して、正教の宣教団はどうしてこれほどまでに成功をおさめているのでしょう。宣教師は二人しかいないし、資金も少ないというのに、一万七〇〇〇人もの信徒がいるなんて!」。わたしはさらにこの地の正教にとって不利な事情を付け加えた。カトリックやプロテスタントが文化の最も進んだ国々から来ているのに対して、正教は文明の最先端を行く国からきたわけではないのだ、などなど。「それではこの成功はいったいどうやって説明するのですか」。正教の教理がカトリックやプロテスタントの教理よりも確固としているからだ、という理由以外にどんな理由があるというのか。とは言え、われわれがここでキリストの教えを同じ一つの言葉で宣教していないというのは、なんと悲しいことだろう。そして、わたしは前橋の Jeffreys〔ヘンリー・スコット・ジェフェリス、米国聖公会の司祭〕のことを例に挙げ、わたしとしてはかれのような人に、わたしたちの教会で話してもらうわけにはいかないという話をした。たとえば、わたしたちの司祭が教理には二つの出所があるという話をしているのに、かれは一つの教理についてしか話さないし、わたしたちの司祭が七つの機密について話すのに、かれは二つしか話さない。これでは聴いている人たちはどんな印象をもつことになるだろう。これにはロンズデールも同意しないわけにはいかなかった。
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と続け、これで9月12日の記述は終わりです。
中村健之介氏は自身がペチェルスキー修道院を訪問した際に強烈な印象を受けたので、ニコライとロンズデールのやりとりに割と深い意味を見い出しておられるようですが、実際にニコライの日記を読んでみると、ニコライには特段の思い入れはないようですね。
そもそも「イギリスの旅行家でもある Londsdale 師」という書き方にはちょっと小馬鹿にしたような響きがあり、「正教は文明の最先端を行く国からきたわけではない」という一見卑下したような表現も、「正教の教理がカトリックやプロテスタントの教理よりも確固としている」という自慢の引き立て役です。
かつてロンズデールが「わたしがどんなに説明しても、どうやら、かれにはキエフの聖骸に対する敬虔の念が目覚めることはなかった」のは、正教会に比べて教理が浅い聖公会の人だからしょーがないね、みたいな軽いノリで書いていますね。
ニコライの宗教的信念は確固たるものであって、ロシア正教が「土俗的なキリスト教」だなどという劣等感はニコライには微塵もありません。
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