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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その1)

2020-11-20 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月20日(金)11時18分43秒

それでは青野原合戦から見て行きたいと思います。
ただ、『難太平記』の「建武四年〔1337〕やらん。康永元年〔1342〕やらんに」という曖昧な記述との関係で、いきなり合戦の場面ではなく、年次に関係する部分も確認しておきます。
さて、青野原合戦は第十九巻に出ていますが、同巻の構成は、

1 光厳院殿重祚の御事
2 本朝将軍兄弟を補任するその例なき事
3 義貞越前府城を攻め落とさるる事
4 金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事
5 諸国宮方蜂起の事
6 相模次郎時行勅免の事
7 奥州国司顕家卿上洛の事、付新田徳寿丸上洛の事
8 桃井坂東勢奥州勢の跡を追つて道々合戦の事
9 青野原合戦の事
10 嚢砂背水の陣の事

となっています。
第一節のタイトル「光厳院殿重祚の御事」は何とも妙な感じですが、冒頭を少し見ておきます。(兵藤校注『太平記(三)』、p303以下)

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 建武四年六月十日、光厳院太上天皇、重祚の御位に即かせ賜ふ。この君は、故相模入道崇鑑が亡びし時、御位に即けまゐらせたりしが、三年の内に天下反覆して、関東亡びはてしかば、その例いかがあるべからんと、諸人異儀多かりけれども、この将軍尊氏卿筑紫より攻め上り給ひし時、院宣をなされしもこの君なり。今また東寺へ潜幸なりて、武家に威を加へられしもこの御事なれば、いかでかその天恩を報じ申さぬ事なかるべきとて、尊氏卿平〔ひら〕に計らひ申されける上は、末座の異見、再往の沙汰に及ばず。
 されば、その比〔ころ〕、物にも覚えぬ田舎者ども、茶の会、酒宴の砌にては、そぞろごとなる物語しけるにも、「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」と、申し沙汰しけるこそ、をかしけれ。
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このように第十九巻は建武四年(1337)六月に始まります。
しかし、この記事の内容は相当変で、そもそも光厳院が重祚した史実はありません。

光厳天皇(1313~64)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

兵藤氏の脚注によれば、「建武三年八月の光明帝(豊仁親王。光厳院の弟で猶子)の践祚にともなう光厳院の院政を重祚としたものか(「梅松論」も光厳院「重祚」とする)」とのことですが、ともかく西源院本の第十九巻は建武四年六月に始まります。
そして、続く第二節「本朝将軍兄弟を補任するその例なき事」も、タイトルからして奇妙です。(p304以下)

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 同じき年十月三日、改元あつて、暦応に移る。その霜月五日の除目に、足利宰相尊氏、上首十一人を越え、正三位に上がり、大納言に遷つて、征夷大将軍に備はり給ふ。舎弟左馬頭直義は、五人を超越して、位〔くらい〕従上四品に叙し、官〔つかさ〕宰相に任じて、日本〔ひのもと〕の将軍になり給ふ。
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まず年次ですが、暦応への改元は「同じき年十月三日」ではなく、翌建武五年(1338)八月の出来事です。
また、尊氏は建武元年に正三位参議、同二年に従二位、同三年に権大納言、同五年(暦応元)八月に正二位、そして征夷大将軍ですから、「その霜月五日の除目に、足利宰相尊氏、上首十一人を越え、正三位に上がり、大納言に遷つて、征夷大将軍に備はり給ふ」は全部間違いです。

足利尊氏(1305~58)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

直義の場合、確かに暦応元年八月に従四位上左兵衛督となっていますが、宰相(参議)任官の事実はなく、「日本〔ひのもと〕の将軍」も意味が分かりません。
この後、「それわが朝に将軍を置きし首〔はじめ〕は」云々と将軍に関する蘊蓄が語られるのですが、そもそも直義は「将軍」ではないので、第二節の「本朝将軍兄弟を補任するその例なき事」というタイトル自体意味不明です。

足利直義(1306~52)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9

ま、それはともかく、第三節「義貞越前府城を攻め落とさるる事」に入ると、金崎城没落の後、「杣山の麓、瓜生が館」で逼塞していた「左中将義貞朝臣、舎弟脇屋右衛門佐義助」が「国々所々に隠れ居たる敗軍の兵を集めて」、「馬、物具なんどこそきらきらしくはなけれども、心ばかりはいかなる樊噲〔はんかい〕、周勃〔しゅうぼつ〕にも劣らじと思ひける義心金鉄の兵ども、三千余騎になりにけり」(p306)という事態になります。
これを聞いた京都では、「将軍より、足利尾張守高経、舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七ヶ国の勢六千余騎を差し添へて、越前府へぞ下されける」(p307)と対応しますが、加賀でも「宮方」が蜂起して越前と連動し、斯波高経は芳しい戦果を挙げることができません。
そして、冬場は雪のために互いに身動きが取れず、小競り合いに終始しますが、「さる程に、あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて」(p309)、新田義貞・脇屋義助の活動が活発になり、越前府中をめぐる激しい攻防戦の末、斯波高経は敗北・逃亡してしまいます。
ところで、何とも奇妙なのは年次です。
「さる程に、あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて」とあるので、素直に読むと、年明け以降の一連の出来事は暦応二年(1339)の話となりますが、史実ではこれらは暦応元年の出来事です。
ということで、青野原合戦に至るまでの西源院本『太平記』の年次はかなりいい加減であり、仮に今川了俊が西源院本『太平記』を持っていて、それを確認しつつ『難太平記』を書いたとしても、青野原合戦を建武四年(1337)の出来事と間違う可能性はありそうです。
しかし、いくら何でも康永元年(1342)と間違うことはないはずで、結局、了俊は手元に『太平記』を置いておらず、あくまで自分の記憶の中の『太平記』を語っているのだろう、と私は推測します。
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