学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その4)

2020-11-15 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月15日(日)12時03分10秒

川添昭二氏の古典的業績により『難太平記』の基礎知識を確認し、ついで和田琢磨氏の見解に即して現在の『難太平記』研究の水準を垣間見てきましたが、改めて『難太平記』は難解な史料だなと感じます。
さて、『難太平記』の本格的な検討は後の課題として、了俊にとってどんな『太平記』が望ましかったのか、どんな記事が『太平記』に入っていれば了俊は満足だったのかを確認した上で、何故そのような記事が実際には『太平記』に入らなかったのかを少し検討してみたいと思います。
まず、『難太平記』の構成ですが、これは前々回投稿で紹介した和田琢磨氏の論文「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」に適切に整理されているので、ちゃっかり利用させて頂くことにします。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/3/57_KJ00009521771/_article/-char/ja/

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校正本総目録(1~25)と私の分類(A~H)

A 昔人の発言の重要性
 1.人可知己先祖事
B 源氏の歴史と足利将軍家は特別であるということ
 2.神代唯有二人子事
 3.八幡太郎義家子孫取天下事
C 今川家と今川荘の由来
 4.今川家系譜事
 5.寄進今川荘於正法院事
D 尊氏・直義に起こった奇瑞
 6.尊氏直義産湯時有奇瑞事
 7.尊氏上洛於三河有奇瑞事
E 『太平記』の成立環境と批判
 8.太平記多謬事
 9.従尊氏九州退陣人数漏於太平記事
 10.尊氏篠村八幡宮願書時事
 11.可入太平記落書事
 12.範国所持太刀号八八王事
 13.細川今川異見事
 14.今川頼国討死事付<基氏子共事>
 15.青野原合戦事
 16.富士浅間神女託宣事
   (15の戦功として駿河国等を貰った旨を述べるA)
 17.貞世辞駿州事
   (駿河国を譲った泰範の裏切り。義満批判)
 18.範国欲使貞世刺清氏事
 19.清氏野心非実事
G 足利将軍家の絶対性と義満批判─応永の乱関係記事─
 20.鎌倉管領氏満謀叛事
 21.貞世被止九州探題子細事<付貞世隠居事>
 22.大内義弘謀叛時勧貞世事
H 追加項目
 23.
 24.
 25.
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以上の記事のうち、『太平記』に言及しているのは8・9・10・11、そして13・15・18の七つですね。
まず、「8.太平記多謬事」(和田氏の表現では「六波羅合戦記事」)は『太平記』関連記事の総論的部分で、「降参」の記述を削除せよ、とはありますが、それ以外の具体的な要求はありません。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

「9.従尊氏九州退陣人数漏於太平記事」は建武三年(1336)、尊氏が「九州に御退の時の事。御供申たりし人もおほく太平記に名字不入にや。子孫の為不便の事か」とあるだけで、具体的に誰々の名前を載せろ、といった要求はありません。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki08.html

「10.尊氏篠村八幡宮願書時事」は、元弘三年(1333)、「丹州篠村八幡宮の御前にて御旗揚給ひし」時に、「両御所の御上矢を一宛神前に被進しに。役人二人有けり。一人は一色右馬介。一人は今川中務大輔也。此事は子細有事にて無口伝人は誤も有にや。此事などは尤書入られて気味可有にや。此中務大輔とは我等が兄の範氏の事也」という話ですね。
ずいぶんもったいぶった書き方をしていますが、「両御所」(尊氏・直義)が矢を奉納する際、その儀礼の担当者二人のうちに了俊の兄、今川範氏がいたというだけの話で、今川家関係者以外にはどうでも良さそうな話です。
「11.可入太平記落書事」は何時の話かも書いてありませんが、「今川に細川そひて出ぬれば堀口きれて新田流るる」という落書を『太平記』に入れてくれれば「此人々の子孫の為面目ならまし」とのことで、今川・細川家関係者以外の人にとってはどうでも良い話ですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki09.html

「13.細川今川異見事」は建武二年(1335)の「駿河国手河原の戦に御方打負けし」時と翌年の「九州御退の時。兵庫魚御堂と云所にてみな腹切の着到付られし」時、即ちいずれも「錦小路殿」直義が敗北を認めて切腹しようか迷ったときに、了俊の父「故入道」今川範国と細川定禅の助言が正反対で、直義が「きよき武士の心は同じかるべしと思ふに。此ちがひめは今に不審也と仰有し也」という話で、了俊は「此事などは殊更無隠間。太平記にも申入度存事也。若さる御沙汰やとて今注付者也」と書いています。
まあ、これは単に今川・細川家関係者だけでなく、それなりに多くの人の関心を惹きそうなエピソードですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki11.html

ちょっと長くなったので、いったんここで切ります。
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