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今川了俊が見た『太平記』

2020-11-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月19日(木)11時07分50秒

先に兵藤裕己・呉座勇一氏の対談を検討した際には引用しませんでしたが、この対談では『太平記』の成立過程について、次のようなやり取りがあります。(『アナホリッシュ国文学』第8号、p28以下)

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兵藤 つぎの段階は、『難太平記』に「後に中絶なり」とあるように、直義周辺での改訂作業が中断したことです。中断の原因は、貞和五年(一三四九)に直義が失脚したことでしょう。直義のこの失脚事件を、『太平記』は巻二十七に記します。このことからも、直義周辺で改訂された『太平記』は、「三十余巻」ではなくて「二十余巻」であって、その改訂作業は観応の擾乱で「中絶」したとみるのが自然です。
 直義周辺で改訂された『太平記』の前半部に、後半部(第三部)が書き継がれたのが、第三段階です。『難太平記』に「近代重ねて書き継げり」とありますが、『難太平記』が書かれたのは応永九年(一四〇二)ですから、「重ねて書き継」がれた「近代」とは、三代将軍義満の時代です。
 足利義満の時代に現存する四〇巻までが書き継がれたわけですが、『難太平記』によれば、その際、「ついでに入筆ども多く所望して書かせければ、人の高名、数を知らず」とあります。足利方の大名が、自分たちの「高名」の書き入れを「数を知らず」「所望」したわけです。今川了俊の『難太平記』も、今川氏の「高名」書き入れ要求の書物という面がありますね。

呉座 そうなりますよね。自分の父親である範国をはじめとする今川一族がこんなに手柄を立てたのに、『太平記』には書かれていない。そのこと自体を書き残しておく必要が今川了俊にはあった。
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この後、兵藤氏が「足利方大名が「高名」の書き入れを要求したのは……」と応じますが、その部分は既に引用済みです。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236

兵藤説に従うと、足利直義周辺での改訂作業が直義失脚により「中断」した後、『難太平記』が書かれた応永九年(1402)年まで、即ち「三代将軍義満の時代」まで実に半世紀以上も「書き継」き作業がダラダラ続き、その間、足利方大名による「高名」の書き入れ要求もダラダラ続いたことになります。
そして、「三代将軍義満の時代」に『太平記』の編集作業が完結したのかというと、兵藤氏は、

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オーセンティック(真正)な原本、権威あるオリジナルが不在のまま、『太平記』の編纂事業は放棄された、未完のまま放置されたことに関係すると思います。なんらかの政治的理由で削除された巻二十二の欠が補訂されない、未完の草稿本のようなテクストが残された。テクストの真正性を担保するオリジナル(原本)が不在のまま、転写と改訂がくり返され、新たに生まれた本も互いに影響し合って新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた結果だと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc06c6a477e7273102fc2816e5682446

などと言われていて、「三代将軍義満の時代」以降のどこかの時点で「『太平記』の編纂事業は放棄」され、「未完のまま放置」されたけれども、その後も「転写と改訂がくり返され」、「新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた」のだそうです。
うーむ。
まあ、出発点である『難太平記』のあらゆる表現を素直に受け止めて、更に論理を積み上げて行けばこのような境地に至るのかもしれませんが、正直、「講釈師見てきたような嘘を言い」という印象を禁じ得ません。
和田琢磨氏が強調されるように、『難太平記』の「六波羅合戦記事が『太平記』の作者・成立に関する貴重な情報を具体的に伝える唯一の資料」なので、ここの解釈を誤ると、とんでもない方向に彷徨ってしまうことになります。
私には、兵藤説はまさにそうしたトンデモの限界を極めた学説なのではないかと思われます。

和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91b38bb8daf4d395033ffc3fc7c0702

さて、『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事を自分なりに丁寧に検討してみた結果、私としては、了俊が見た『太平記』は現存の古本系の写本とそれほど違っていないのではないか、という印象を受けています。
『太平記』の諸本のうち、最古の写本である永和本について、兵藤氏は、

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 永和本は、古本系の巻三十二に相当する巻だけが伝わる『太平記』の零本(本文の一部だけが伝わる端本)である。紙背に記された『穐夜長〔あきのよなが〕物語』の末尾に、永和三年(一三七七)二月の書写年次があり、そのおもてに書写された『太平記』巻三十二(に相当する巻)が、それ以前の書写であることはたしかである。すなわち、永和本の下限は、永和三年二月であり、それは『太平記』の末尾、巻四十「細川右馬頭西国より上洛の事」の年時貞治六年(一三六七)十二月から九年後であり、『洞院公定日記』で「太平記作者」「小嶋法師」が死去したとされる応安七年(一三七四)四月からは三年たらずである。零本ではあっても、『太平記』の成立直後ないしは当時の写本として貴重である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/08cde34f6467b40fc5afb2c868f48b53

と言われていますが、古本系の巻三十二が扱っているのは観応三年(1352)八月、後光厳天皇が三種の神器のないまま践祚した後、京都をめぐる目まぐるしい争奪戦を経て、南朝方の足利直冬が京都から没落する文和四年(1355)三月までです。
従って永和三年(1377)に巻三十二まで出来ていることは確定していますが、残りの八巻も次々に生ずる紛争を概ね時系列に従って描写しているだけなので、永和三年の時点で全て完成していたとしても不思議ではありません。
私としては、義満が独裁的な権力を振るい始める前に『太平記』は既に完成していて、以後は多少の改訂があった程度であり、従って了俊が見た『太平記』は現在の古本系と大体同じようなものと考えています。
そして、例の「降参」を除けば、そう考えても『難太平記』の記述と矛盾はしないであろうことを、西源院本の青野原合戦と細川清氏没落記事に即して、少し検討してみたいと思います。
まあ、所詮は印象論で終わってしまう程度の話かもしれませんが。
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