投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月22日(日)18時28分59秒
成良親王は西源院本『太平記』に二回しか登場しませんが、最初は第十三巻第四節「中先代の事」です。(兵藤校注『太平記(二)』、p321)
-------
今、天下一統に帰して、寰中〔かんちゅう〕無事なりと云へども、朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪〔あ〕しかりぬべしとて、当今〔とうぎん〕第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。
-------
前回投稿で引用した第十九巻第四節では「連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」でしたが、ここでは何故か「第八宮」になっていますね。
ま、それはともかく、『太平記』には成良が足利直義に伴われて鎌倉に下った年次は記載されていませんが、これは元弘三年(1333)十二月で、このとき成良は僅か八歳の無品親王です。
そして、翌建武元年十月二十二日、尊氏と対立していた「征夷大将軍二品兵部卿護良親王」が後醍醐の命令で逮捕され、同日、征夷大将軍の地位を剥奪されると、翌十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」(国史大系『続史愚抄 前篇』、吉川弘文館)とのことで、九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
更に翌十五日には「流二品護良親王于鎌倉」(同)とのことなので、この一連の措置は、例え前官であろうと護良親王が「征夷大将軍」の権威を帯びて鎌倉に入るのを許さない、という意思表示のようですね。
さて、成良が「征夷大将軍」となった翌建武二年(1335)六月に西園寺公宗の陰謀が発覚し、続いて七月には北条高時の遺児・時行が信濃から鎌倉に攻め込んできます。(兵藤校注『太平記(二)』、p321以下)
-------
かかる処に、西園寺大納言公宗の陰謀露顕して誅せられ給ひし時、京都にて旗を挙げんと企つる平家の余類ども、皆東国、北国に逃げ下つて、なお素懐を達せんと謀る。【中略】
時行、その勢を率して五万余騎、俄かに信濃より起こつて、時日〔ときひ〕を替へず鎌倉に攻め上るに、渋川刑部大夫、小山判官秀朝、武蔵国に出で合ひて支へんとしけるが、戦ひに利無くして、渋川と小山判官秀朝、ともに自害しければ、郎従三百余人、同所にして皆討たれにけり。また、新田四郎が上野国蕪川〔かぶらがわ〕にて支へてこれを防きけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力〔せいりき〕を摧〔くだ〕かれて、二百余人討たれにけり。
その後、時行、いよいよ大勢になつて、三方より鎌倉へ押し寄する。直義朝臣は、事の急なる上、折節、用意の兵少なかりしかば、「なかなか戦ひては、敵に利を付けつべし」とて、将軍宮を具足し奉つて、建武二年七月二十六日の暁天に、鎌倉をぞ落ちられけり。
-------
この鎌倉逃亡の際、直義が淵野辺義博に命じて「前征夷大将軍二品護良親王」を殺害したことは有名ですが、「征夷大将軍成良親王」は直義に護られて鎌倉を脱出します。
そして直義は後醍醐の制止を無視して東下した尊氏と三河で合流し、反転して時行から鎌倉を奪還しますが、成良は鎌倉には戻らず、八月三日、「征夷大将軍成良親王自鎌倉帰洛。大江時古<相模守直義朝臣家人>守護云<〇元弘記裏書、南方紀伝、五大成>」(『続史愚抄』)とのことで、成良は京都で直義の家人・大江時古の保護下に置かれます。
この後の軍事・政治情勢の変転は目まぐるしく、十月、尊氏は後醍醐の召喚命令を拒否し、十一月、直義は新田義貞討伐を号して諸国の兵を募り、義貞は後醍醐の命を受けて鎌倉に向かうも、十二月、箱根竹下で敗れます。
足利軍は敗走する義貞を追って西上しますが、陸奥の北畠顕家はその足利軍を追撃し、翌建武三年(1336)正月、義貞・顕家は足利軍を破って入京、更に翌二月六日、足利軍は摂津打出・豊島河原で義貞・楠木正成に敗れます。
そして、翌七日、「自山門<坂本歟。>内侍所渡御花山院仮皇居。今日。官軍重討破足利前宰相尊氏。於湊川」、更に同日「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」(『続史愚抄』)とのことで、叡山から花山院仮皇居に移った後醍醐は征夷大将軍成良親王を更迭します。
足利軍の没落が確実と見えたから、これでやっと安心して尊氏・直義に近い成良親王を罷免できるとの判断だったのか、あるいはもっと早く罷免したかったけれど、後醍醐もいろいろ忙しかったのでこの日まで延びたのかは分かりませんが、とにかく成良親王と尊氏・直義の関係は密接ですね。
さて、尊氏は遠く九州まで落ちて行きますが、三月、多々良浜で菊池武敏を破り、四月に東上開始、五月に義貞・正成を湊川で破ります。
そして八月、尊氏の奏請で北朝の豊仁親王(光明天皇)が即位しますが、叡山で頑張っていた後醍醐も十月に尊氏と和睦し、十一月二日、「自花山院殿<先帝御座。>被渡剣璽内侍所等<兼各被作置偽物云。>于東寺仮皇居。此日。被献太上天皇尊号于先帝。」(『続史愚抄』)となります。
ついで同月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」(同)とのことで、北朝の天皇の皇太子に後醍醐天皇の皇子で「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
何とも不思議に思えるこの人事は今まであまり注目されていませんでしたが、亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、若干の分析をされていますね。
ただ、亀田氏も成良が「前征夷大将軍」であることには触れられていません。
「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d9df0c885a87bff89426d3b64d452ef
成良親王は西源院本『太平記』に二回しか登場しませんが、最初は第十三巻第四節「中先代の事」です。(兵藤校注『太平記(二)』、p321)
-------
今、天下一統に帰して、寰中〔かんちゅう〕無事なりと云へども、朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪〔あ〕しかりぬべしとて、当今〔とうぎん〕第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。
-------
前回投稿で引用した第十九巻第四節では「連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」でしたが、ここでは何故か「第八宮」になっていますね。
ま、それはともかく、『太平記』には成良が足利直義に伴われて鎌倉に下った年次は記載されていませんが、これは元弘三年(1333)十二月で、このとき成良は僅か八歳の無品親王です。
そして、翌建武元年十月二十二日、尊氏と対立していた「征夷大将軍二品兵部卿護良親王」が後醍醐の命令で逮捕され、同日、征夷大将軍の地位を剥奪されると、翌十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」(国史大系『続史愚抄 前篇』、吉川弘文館)とのことで、九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
更に翌十五日には「流二品護良親王于鎌倉」(同)とのことなので、この一連の措置は、例え前官であろうと護良親王が「征夷大将軍」の権威を帯びて鎌倉に入るのを許さない、という意思表示のようですね。
さて、成良が「征夷大将軍」となった翌建武二年(1335)六月に西園寺公宗の陰謀が発覚し、続いて七月には北条高時の遺児・時行が信濃から鎌倉に攻め込んできます。(兵藤校注『太平記(二)』、p321以下)
-------
かかる処に、西園寺大納言公宗の陰謀露顕して誅せられ給ひし時、京都にて旗を挙げんと企つる平家の余類ども、皆東国、北国に逃げ下つて、なお素懐を達せんと謀る。【中略】
時行、その勢を率して五万余騎、俄かに信濃より起こつて、時日〔ときひ〕を替へず鎌倉に攻め上るに、渋川刑部大夫、小山判官秀朝、武蔵国に出で合ひて支へんとしけるが、戦ひに利無くして、渋川と小山判官秀朝、ともに自害しければ、郎従三百余人、同所にして皆討たれにけり。また、新田四郎が上野国蕪川〔かぶらがわ〕にて支へてこれを防きけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力〔せいりき〕を摧〔くだ〕かれて、二百余人討たれにけり。
その後、時行、いよいよ大勢になつて、三方より鎌倉へ押し寄する。直義朝臣は、事の急なる上、折節、用意の兵少なかりしかば、「なかなか戦ひては、敵に利を付けつべし」とて、将軍宮を具足し奉つて、建武二年七月二十六日の暁天に、鎌倉をぞ落ちられけり。
-------
この鎌倉逃亡の際、直義が淵野辺義博に命じて「前征夷大将軍二品護良親王」を殺害したことは有名ですが、「征夷大将軍成良親王」は直義に護られて鎌倉を脱出します。
そして直義は後醍醐の制止を無視して東下した尊氏と三河で合流し、反転して時行から鎌倉を奪還しますが、成良は鎌倉には戻らず、八月三日、「征夷大将軍成良親王自鎌倉帰洛。大江時古<相模守直義朝臣家人>守護云<〇元弘記裏書、南方紀伝、五大成>」(『続史愚抄』)とのことで、成良は京都で直義の家人・大江時古の保護下に置かれます。
この後の軍事・政治情勢の変転は目まぐるしく、十月、尊氏は後醍醐の召喚命令を拒否し、十一月、直義は新田義貞討伐を号して諸国の兵を募り、義貞は後醍醐の命を受けて鎌倉に向かうも、十二月、箱根竹下で敗れます。
足利軍は敗走する義貞を追って西上しますが、陸奥の北畠顕家はその足利軍を追撃し、翌建武三年(1336)正月、義貞・顕家は足利軍を破って入京、更に翌二月六日、足利軍は摂津打出・豊島河原で義貞・楠木正成に敗れます。
そして、翌七日、「自山門<坂本歟。>内侍所渡御花山院仮皇居。今日。官軍重討破足利前宰相尊氏。於湊川」、更に同日「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」(『続史愚抄』)とのことで、叡山から花山院仮皇居に移った後醍醐は征夷大将軍成良親王を更迭します。
足利軍の没落が確実と見えたから、これでやっと安心して尊氏・直義に近い成良親王を罷免できるとの判断だったのか、あるいはもっと早く罷免したかったけれど、後醍醐もいろいろ忙しかったのでこの日まで延びたのかは分かりませんが、とにかく成良親王と尊氏・直義の関係は密接ですね。
さて、尊氏は遠く九州まで落ちて行きますが、三月、多々良浜で菊池武敏を破り、四月に東上開始、五月に義貞・正成を湊川で破ります。
そして八月、尊氏の奏請で北朝の豊仁親王(光明天皇)が即位しますが、叡山で頑張っていた後醍醐も十月に尊氏と和睦し、十一月二日、「自花山院殿<先帝御座。>被渡剣璽内侍所等<兼各被作置偽物云。>于東寺仮皇居。此日。被献太上天皇尊号于先帝。」(『続史愚抄』)となります。
ついで同月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」(同)とのことで、北朝の天皇の皇太子に後醍醐天皇の皇子で「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
何とも不思議に思えるこの人事は今まであまり注目されていませんでしたが、亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、若干の分析をされていますね。
ただ、亀田氏も成良が「前征夷大将軍」であることには触れられていません。
「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d9df0c885a87bff89426d3b64d452ef
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます