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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その2)

2020-11-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月21日(土)13時03分16秒

第十九巻の第一節から第三節まで見て、『太平記』の作者が設定する年次は本当にいい加減で、改元の年すら間違っている上、重祚していない光厳院は重祚したことにされ、尊氏・直義の経歴は間違いだらけ、しかも直義が「日本〔ひのもと〕の将軍」になったという訳の分からない記述まであることを確認しました。
兵藤裕己氏は『太平記』の作者に「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」があったと言われますが、事実を正確に記録しようとする態度に乏しい『太平記』の作者にそんなものが本当にあったのか。
私自身は、『太平記』全巻を通じて「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」を感じたことは一度もないので、兵藤氏が論じている『太平記』はどこのパラレルワールドに存在しているのだろうかと疑問を感じるほどです。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その10)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

さて、第四節「金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事」も、『太平記』の作者に「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」が全然ないことを示す好例のように思われるので、丁寧に紹介してみます。(兵藤校注『太平記(三)』、p315以下)

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 新田義貞、義助、杣山より打ち出で、尾張守、伊予守、府中その外〔ほか〕所々落とされぬと聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事はひとへに、東宮の宮の、かれらを御扶〔おんたす〕けあらんとて、金崎にて皆腹を切りたりと仰せられけるを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程に当家を失はんと思し召しけるを知らで、ただ置き奉らば、いかさま不思議の御企てもありぬと覚ゆれば、ひそかに鴆毒〔ちんどく〕をまゐらせて失い奉れ」と、粟飯原〔あいばら〕下総守氏光に下知せられける。
 東宮は、連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮と、一つ御所に押し籠められて御座ありける処へ、氏光、薬を一裹〔つつ〕み持参して、「いつとなくかやうに打ち籠りて御座候へば、病気なんどの萌〔きざ〕す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候。毎朝に一七日〔ひとなぬか〕の間聞こし召し候へ」とて、御前にぞ差し置かれける。
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いったん、ここで切ります。
建武四年(1337)三月、金埼城が落ち、尊良親王は自害しますが、「東宮」恒良親王は京都に連れ戻されます。
第十八巻第十節「東宮還御の事」では、「金埼にて討死、自害の頸八百五十四取り並べて、実検せられけるに、新田の一族の頸には、越後守義顕、里見大炊助義氏の頸ばかりあつて、義貞、義助二人の頸はなかりけり」という状況で、「足利尾張守」斯波高経が恒良親王に、「義貞、義助二人が死骸、いづくにあるとも見え候はぬは、何となつて候ひけるやらん」と聞いたところ、恒良親王は「御幼稚の御心にも、かの人々杣山にありと敵に知らせなば、やがてこれより寄する事もこそあれ」と思って、「義貞、義助二人は、昨日の暮れ程に自害したりしを、手の者どもが、役所の中にて、火葬にすると曰ひ沙汰せし」と答えたので、斯波高経はその答えに騙されて二人の追及を止めた、とあります。(p254以下)
足利尊氏と直義は、「これ程に当家を失はんと思し召しける」恒良親王を放置できないと考えて、鴆毒を用いて毒殺することを粟飯原氏光に命じ、「将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」成良親王と二人纏めて毒殺しようとしますが、その毒は「三条殿」即ち直義が「調進」したことが明言されています。

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 氏光罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて仰せられけるは、「病の未だ見えぬ前に、かねて療治を加ふる程に、われらをいたはしく思ふならば、この一室の中に押し籠めて、朝暮〔ちょうぼ〕物を思はすべしや。これ必ず病を治〔じ〕する薬にはあるべからず。ただ命を縮〔しじ〕むる毒なるべし」とて、庭に打ち捨てんとせさせ給ひけるを、東宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、それ程に情けなき所存を挟〔さしはさ〕むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命にても候はず。これ元来〔もとより〕願ふ所の成就なり。ただこの毒を飲んで、世を早くせばやとこそ思ひ候へ。「それ人間の習ひ、一日一夜を経〔ふ〕る程に、八億四千の思ひあり」と云へり。富貴栄花の人に於て、なほこの苦しみを遁れず。況んや、われら籠鳥〔ろうちょう〕の雲を恋ひ、涸魚〔かくぎょ〕の水を求むる如くになつて、聞くに付け見るに随ふ悲しみの中に、待つ事もなき月日を送らんよりは、命を鴆毒のために縮めて、後生善処〔ごしょうぜんしょ〕の望みを達せんには如〔し〕かじ」と仰せられて、毎日に法華経を一部あそばされて、この鴆毒をぞまゐりける。将軍宮、これを御覧じて、「誰とても浮世に心を留むべきにあらず。同じ暗き路に迷はん後世〔ごせ〕までも、御供申さんこそ本意〔ほい〕なれ」とて、もろともにこの毒を七日までぞまゐりける。
 やがて東宮は、その翌日〔つぎのひ〕より御心地〔おんここち〕例に違〔たが〕はせ給ひけるが、御終焉の儀閑〔しず〕まりて、四月十三日の暮程に、忽ちに御隠れありてけり。将軍宮は、二十日余りまで恙〔つつが〕もなくて御座ありけるが、黄疸〔おうだん〕と云ふ御労〔おんいたわ〕り出で来て、御遍身〔ごへんしん〕黄にならせ給ひて、これもつひにはかなくならせ給ひにけり。
 あはれなるかな。尸鳩樹頭〔しきゅうじゅとう〕の花、連枝一朝〔れんしいっちょう〕の雨に随ひ、悲しいかな、鶺鴒原上〔せきれいげんじょう〕の草、同根〔どうこん〕忽ちに三秋〔さんしゅう〕の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例〔ためし〕少なくあはれなる事に聞く人心を傷〔いた〕ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。
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ということで、「東宮」恒良親王と「将軍の宮」成良親王は、直義が「調進」した鴆毒を、それと承知で七日間飲み続け、結局二人とも死んでしまったのだそうです。
しかし、少なくとも成良親王は康永三年(1343)まで生存していたことが確実で、恒良親王についても、この時期に死去したことが他の史料で裏付けられる訳ではなく、この毒殺記事の信頼性は相当に疑問です。
そして、この同母兄弟が鴆毒で毒殺されたとする記事は、観応二年(1352)二月、尊氏に敗北して鎌倉に幽閉されていた直義が鴆毒で毒殺されたとの話を連想させます。
この点、次の投稿でもう少し検討します。

恒良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
成良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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