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0169 「護良は後醍醐に無断で将軍を自称」したのか。(その3)

2024-09-14 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第169回配信です。


一、前回配信の補足

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」において、

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 従って、本稿の主眼は護良親王令旨の古文書学的検討を通じて、同親王の動向の一端を概観し、もって、『太平記』巻一二が建武新政樹立について「抑〔そもそも〕今兵革一時ニ定〔しづまつ〕テ、廃帝(後醍醐天皇のこと)重祚ヲ践〔ふま〕セ給フ御事、偏〔ひとへ〕ニ此宮(護良親王のこと)ノ依武功事ナ」りと評する理由を考察することにある。


という『太平記』の引用箇所は第十二巻の「9 兵部卿親王流刑の事」ではなく、「10 驪姫〔りき〕の事」。
護良親王が後醍醐に提出しようとした「御文」の中に「申生〔しんせい〕死して晋の国乱れ」という表現があり、この説明として「驪姫の事」が語られる。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その3)〔2020-12-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8

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 そもそも宮の遊ばされたる奏状に、申生死して晋の国傾くと遊ばさるる事、誠に肝に銘じ、あはれに覚えたり。その故は、孝子、その父に誠ありと云へども、継母、その子を讒する時は、国を傾け、家を失う事、古へよりその類多し。
 昔、異国に、晋の献公と云ふ人おはしけり。その后斉姜〔せいきょう〕、三人の子を生み給ふ。嫡子をば申生、次男をば重耳〔ちょうじ〕、三男をば夷吾〔いご〕とぞ申しける。三人の子、すでに人となつて後、后斉姜、病に侵されて、忽ちにはかなくなりにけり。献公、これを歎く事浅からず。しかれども、別れの日数漸く遠くなりしかば、移れば変はる心の花に、昔の契りを忘れて、また驪姫と云ひける美人をぞ迎へられける。この驪姫、ただ紅顔翠黛の眼を迷はすのみにあらず、また言〔ことば〕を巧み、色を令〔よ〕うして、意〔こころ〕を悦ばしめしかば、献公の寵愛甚だしくして、別れし人の面影、夢にも見えずなりにけり。
 かくて年月を経し程に、驪姫、また子を生めり。これを奚斉〔けいせい〕とぞ名づけける。奚斉、未だ幼〔いとけな〕しと云へども、母の寵愛によつて、父の覚え三人の太子に超えたりしかば、献公、常に前の后斉姜の子三人を捨てて、今の驪姫が腹の子奚斉に、晋の国を譲らんと思ひ給へり。驪姫、嬉しと思ひながら、上に偽り申しけるは、「奚斉未だ幼くして、善悪も弁〔わきま〕へず。賢愚更に見えず。先の太子三人を超えて、この国を続〔つ〕がん事、これ天下の人の悪〔にく〕む所となるべし」と、よりより諫め申しければ、献公、いよいよ驪姫が心の私〔わたくし〕なく、世の譏りを恥ぢ、(国の)安からん事を思へる処を感じて、ただ万事をこれに任せしかば、その威ますます重くなつて、天下皆これに帰伏せり。
 或る時、嫡子の申生、母の追孝〔ついきょう〕のために三牲〔さんせい〕の備へを調へて、斉姜の死して埋もれし曲沃〔きょくよく〕の墳墓をぞ祭られける。その胙〔ひもろぎ〕の余りを、父の献公の方へ奉り給ふ。献公は折節狩場に出で給ひたりければ、この胙の余りを献公に奉りしを、裹〔つつ〕みで置きたるに、驪姫、ひそかに鴆〔ちん〕と云ふ恐ろしき毒をぞ入れたりける。献公、狩場より帰りて、やがてこの胙を食はんとし給ひけるを、驪姫申しけるは、「外〔ほか〕より贈れる物をば、必ず先〔ま〕づ人に食はせて後にこそ、大人〔たいじん〕には奉〔まいら〕する事なれ」とて、御前なりける人に食はせらる。その人忽ちに血を吐いて死にけり。「こはいかなる事ぞ」とて、庭前なる犬と鶏に食せて見給へば、鶏、犬ともに地に倒れて死す。献公、大きに驚いて、その余りを土に捨て給へば、捨つる所の土穿〔う〕げて、あたりの木草も枯れしぼむ。
 驪姫、偽つて涙を流して申しけるは、「われ太子申生を思ふ事、奚斉に劣らず。されば、奚斉を太子に立んとし給ふをも、われこそ諫め申して留めつるに、さればよ、この毒を以てわれと父とを殺して、早く晋の国を取らんと工〔たく〕まれけるこそ、うたてけれ。これを以て思ふに、献公いかにもなり給ひなん後、申生、よもわれと奚斉とをば、一日片時〔へんし〕も生けて置き給はじ。願はくは、君、われを捨て、奚斉を失ひて、申生の御心を休め給へ」と、泣く泣く献公にぞ申されける。献公、もとより智浅くして讒を信ずる人なりければ、大きに怒つて、太子申生を誅すべき由、典獄の官に仰せつけらる。
 傍〔かた〕への群臣悉く、申生の罪なくして死に赴かん事を悲しんで、「急ぎ他国へ落ちさせ給ふべし」とぞ告げたりける。申生、これを聞き、「われ少年の昔母を失ひて、長年の後継母に遭へり。これ不幸の上に妖命ぞとは知る。そもそも天地の間、いづれの所にか父子のなき国あらんや。今、その死を遁れんために他国へ行きては、これこそ父を殺さんとて鴆毒を与へたりし大逆不孝〔たいぎゃくふきょう〕の者よと、見る人ごとに悪〔にく〕まれて、生きては何の顔〔かんばせ〕かあらん。われ過〔あやま〕らざる処をば、天これを知れり。ただ虚名の下に死を賜つて、父の怒り休めんに如〔し〕かじ」とて、討手未だ来たらざる前〔さき〕に、自ら剣に貫かれて、つひに空しくなりにけり。
 その弟重耳、夷吾、この事を聞いて、なほ驪姫が讒のまたわが身の上に来たらんずる事を恐れて、他国へ逃げたりける。かくて、奚斉、晋の国を譲り得たりけるが、天命に背きしかば、幾程もなくて、献公、奚斉父子ともに、その臣里剋〔りこく〕と云ひける者に討たれて、晋の国忽ちに滅亡しにけり。
 そもそも今、兵革〔ひょうかく〕一所に定〔しず〕まりて、廃帝重祚を践〔ふ〕み給ふ御事は、ひとへにこの宮の武功に依りし事なれば、たとひ小過ありとも、誡めてしかも宥〔なだ〕めらるべかりしを、是非なくして敵人の手に渡されて、遠流〔おんる〕に処せられん事は、朝庭再び傾〔かたぶ〕いて、武家またはびこるべき瑞相にやと、人々申し合ひけるが、はたして大塔宮失はれさせ給ひし後、忽ちに天下皆将軍の代となりにけり。「牝鶏〔ひんけい〕の晨〔あした〕するは、家の尽きんずる相なり」と、古賢の云ひし言〔ことば〕の末、げにもと思ひ知られたり。
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「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)〔2021-02-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c4483d8a1c0320d5b998c34598e873a
謎の女・赤橋登子(その10)〔2021-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f523dc6318081a68d0d6786e192c21b2
0076 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その1)〔2024-05-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db438cbc4c0eb15145b6cefb1c9df944

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)〔2021-01-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/813ca39bbecae0e66bb100692c945ea5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eeca8d4324a187cfc7d7ae54aa597620


二、森論文の続き

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)〔2021-01-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d

護良親王は征夷大将軍を「解任」されたのか。
合意による辞職の可能性も十分に考えられるのではないか。
更に、護良親王が異母弟の成良親王に征夷大将軍の地位を譲ってやった可能性もあるのではないか。

成良親王は足利直義とともに元弘三年(1333)十二月に鎌倉に向かう。
『太平記』と『梅松論』はいずれも、鎌倉下向の時点で成良親王は征夷大将軍だったとする。
しかし、『大日本史料 第六編之二』は成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について建武二年(1335)八月一日と断定し、田中義成以降、これが定説。

成良親王(1326‐44)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

四月初めの中間整理(その3)〔2021-04-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)〔2021-09-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64eae21672f1f4990d44ae4f277c59f5
「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」(by 北畠親房氏)〔2021-09-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bfc237fa4ed6c5b9fdd070a08f9cfeb
中院具光の鎌倉下向時期〔2021-09-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33d0baa06ca96303998f87be609624d7
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