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「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」(by 北畠親房氏)

2021-09-04 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 4日(土)15時58分53秒

桃崎有一郎氏の「建武政権論」を検討した際、この時期の歴史の大きな流れを描く三つの史料のうち、歴史研究者は『神皇正統記』・『梅松論』・『太平記』の順で信頼性が高いとする傾向があると書きました。

「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb38fc71a10e139957300e67b1c54746

ただ、よく考えてみると、『神皇正統記』・『梅松論』の信頼性はほぼ同等と評価され、話題によってどちらを信頼するかが決められるのに対し、『太平記』は他の二つに関係記事がない場合に仕方なく参照する一段下のレベルの史料、と見るのが正確かもしれません。
いずれにせよ、史料の利用という点では、成良親王の征夷大将軍就任時期を建武二年(1335)八月一日とする田中義成以来の定説はかなり特殊ですね。
確実な一次史料に照らして『神皇正統記』・『梅松論』・『太平記』の全ての記述に反する事実を認定するならともかく、『相顕抄』のような信頼性に乏しい二次史料だけに依拠して八月一日が正しいとするのはどうにも不思議です。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666

さて、佐藤進一氏は東下時の尊氏の行動については『梅松論』でも『太平記』でもなく、「高氏は…征夷大将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」という『神皇正統記』の記述を信頼されていますが、「悉くはゆるされず」という文言からすると、尊氏の希望を全部は満たさずとも、「征東将軍」として何らかの権限が付与された、と読むのが自然ではないかと私は考えます。
しかし、佐藤氏は尊氏の出立時に「後醍醐は尊氏のいっさいの要請をしりぞけた。そればかりでなく、尊氏の望む征夷大将軍を成良に与えた」(p110)とし、次いで「後醍醐は改めて尊氏に征東将軍の号を授けた」(同)とされるので、後醍醐は尊氏に「官軍」としての正当性を付与しただけで実権は全く与えなかった、との立場ですね。
そして、尊氏が時行軍を破った後に関しては、

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 後醍醐は、鎌倉奪回の報を得ると、さっそく尊氏の位を従二位に上せて、勲功を賞し、やがて勅使を送って、「争乱静謐に帰したうえは、すみやかに上洛せよ。武士の恩賞は、天皇みずから綸旨をもっておこなう」と伝えさせた。尊氏が自分の手で武士に恩賞を与えているという報告に、尊氏離反の徴候を認めたからである。
 このとき、尊氏は勅命に従おうとしたが、弟直義が、
「後醍醐および義貞の陰謀の手をのがれて、武運強く関東に下ることができたのに、ふたたび大敵の中に身を挺する法はない」
と、これをとめた。尊氏派、十月十五日、鎌倉若宮小路の旧鎌倉将軍邸址に新第を造って、二階堂の仮住まいから、ここに移った。これで、天皇の帰京命令に行動をもって答えた形になった。
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とされます。(p112)
尊氏が何の権限も与えられていないのに勝手に恩賞を与えているので、後醍醐は勅使を送って帰京を命ずるとともに、「武士の恩賞は、天皇みずから綸旨をもっておこなう」旨を伝えさせた、ということですが、これはもともと尊氏には恩賞付与の権限が全くない、という事実を確認的に通知した、という立場ですね。
ただ、この勅使の帰京命令云々は『神皇正統記』にも『太平記』にも存在せず、『梅松論』のみに描かれたエピソードです。
『梅松論』には、

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 去程に将軍御兄弟鎌倉に打入り、二階堂の別当に御座ありしかば、京都より供奉の輩は勲功の賞に預かることを悦び、また先代与力の輩は死罪・流刑を宥められしほどに、先非を悔いていかにも忠節を致さむ事を思はぬ者こそなかりけれ。
 京都よりは人々、親類を使者として東夷誅罰を各々賀し申さる。また、勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下着し、「今度東国の逆浪を速やかに静謐すること叡感再三なり。但軍兵の賞においては京都において綸旨を以て宛行ふべきなり。先づ早々帰洛あるべし」となり。
 勅答には大御所「急ぎ参るべきよし」御申しありける所に、下御所仰せられけるは、
「御上洛然るべからず候。その故は相摸守高時滅亡して天下一統になる事は、併せて御武威によれり。しかれば頻年京都に御座ありし時、公家并びに義貞隠謀度々に及といへども、御運によつて今に安全なり。たまたま大敵の中を逃れて関東に御座然る可き」旨を以て、堅諌め御申有けるのよつて、御上洛を止められて、若宮小路の代々将軍家の旧跡に御所を造られしかば、師直以下の諸大名屋形、軒を並べける程に、鎌倉の躰を誠に目出度ぞ覚えし。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあって、佐藤氏の叙述はほぼ『梅松論』の丸写しですね。
従来、中院具光を通じて尊氏に帰京命令が出され、尊氏はこれに従おうとしたが直義に止められた、という話を研究者は誰も疑っていませんが、私はちょっと疑問を感じています。
というのは、『梅松論』は一般に足利寄りの史書とされますが、正確には直義寄りの史書と考えるべきであって、愚かにも後醍醐にだまされようとしている尊氏を賢弟・直義が諫止した、というこの直義讃美のエピソードは『梅松論』の創作の可能性があるからです。
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