投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月22日(月)12時44分29秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p67以下)
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よろづのことよりも、女御の御さまかたちのめでたくおはしませば、上も思ほしつきにたり。女は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれど、いとおとなしくおよすけ給へれば、めやすき御程なりけり。かの下くゆる心ちにも、いと嬉しきものから、心は心として、胸のみ苦しきさまされば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、ついにいかになり給はんと、いとほしき。程なく后立ちありしかば、大臣心行きて思さるること限りなし。
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何よりも女御の御容姿が優れていらっしゃるので、亀山天皇も深く愛された。女御は十六歳で天皇は十二歳だが、とても大人びていらっしゃるので、似合いの御仲であった。あの下でいぶっている火のような公宗中納言のお気持ちも、妹が帝の寵愛を受けるのは嬉しいものの、それはそれとして、胸の中は苦しさは募るばかりで、将来、ずっと我慢していられるとも思えず、結局どうなることかとお気の毒である。間もなく立后の儀もあったので、実雄公は非常に満足されたのであった。
ということで、佶子は文応二年(弘長元年、1261)二月八日、中宮となります。
『増鏡』は後深草天皇と西園寺公子の年齢差にはずいぶん厳しかったのに、亀山天皇と洞院佶子の年齢差には甘いですね。
ま、前者は十一歳、後者は四歳ではありますが。
「巻六 おりゐる雲」(その1)─女御入内(西園寺公子)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6923413073fbd722365aa088e6a8b51d
さて、『増鏡』は公宗の不吉な将来を暗示はするものの、具体的には書きません。
公宗は弘長三年(1263)三月二十一日、二十三歳であっさり死んでしまいますが、『公卿補任』弘長三年には、
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権中納言正三位 藤公宗(二十三)
二月十九日従二位(朝覲行幸。左大臣院司賞譲)。三月廿一日薨(腫物所労。廿三歳)
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とあります。
父親の左大臣・実雄が朝覲行幸の賞を公宗に譲ったため、正三位から従二位に昇進したばかりだったのに、その一ヵ月後に亡くなってしまった訳ですが、直接の死因は「腫物」であり、病死ですね。
なお、実雄には「三月廿日上表」とあり、公宗の死の前日、実雄は左大臣を辞しています。
このときはまだ四十七歳ですが、以後はずっと散位で、文永十年(1273)八月四日に出家し、同十六日に五十七歳で死去していますね。
洞院実雄(1219-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%9F%E9%9B%84
さて、公宗・佶子の話は私の定義する「愛欲エピソード」の初例なので少し丁寧に紹介してきましたが、これから先は適宜省略して進めます。
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