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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)

2020-10-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月19日(月)13時02分20秒

「もともとは、ある程度特定の構想、特定の立場に基づいて作ろうとしていたけれど」、現実が「混沌として複雑化していった」ために、「単一の視点で語ることができなくなってああいう形になったのか」、それとも「そもそも作者が現実に対して冷めた見方をしていて、南朝であろうと北朝であろうと、美化せずにすべて批判していくという視点を意図的に採用したのか」、「その辺はどうなのだろう、と思ったりします」という呉座氏に対し、兵藤氏は次のように回答します。(p36以下)

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兵藤 段階的な成立の問題を考慮に入れる必要があるでしょう。『太平記』の「三十余巻」だか「二十余巻」だかを所持・持参した恵鎮は、北条邸跡に建立された鎮魂の寺院、宝戒寺の開山になっています。そんな恵鎮の経歴を考えると、彼の周辺で作られた「原太平記」は、後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記でしょう。実際、巻一冒頭は、後醍醐の果断な政治をたたえていますし、その英邁ぶりを「命世亜聖」、聖人に準じると評しています。後醍醐の崩御を語る巻二十一でも、「聖主神武の君」とその死を悼んでいます。

呉座 それが原『太平記』で、そこには後醍醐天皇鎮魂の物語としての、一定のまとまり、整合性があった、ということですね。

兵藤 そうだと思います。成立の第一段階で、恵鎮が持参した『太平記』は、それなりに首尾一貫していたはずです。しかし先ほども言いましたが、巻一冒頭は、後醍醐を賛美する一方で、「君の徳に違ひ」という矛盾した評価を下します。果断な政治をたたえる一方で、その政治手法は王道ではなく覇道だったと批判します。たぶん成立の第二段階、足利政権周辺の評価が混在しているのでしょう。
 巻二十一の後醍醐の崩御記事でも、生前の事跡をたたえる一方で、その怨霊化を予感させるような臨終時の悪相を語ります。この臨終の悪相がそのまま第三部の怨霊史観の伏線になるわけですから、ここにも第三部が書き継がれる時点での加筆・改訂がうかがえるかと思います。
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うーむ。
兵藤氏は『難太平記』から三段階説・幕府「正史」説を導き、第一段階では「後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記」として「それなりに首尾一貫」していたが、第二段階で「足利政権周辺」の後醍醐への否定的評価が「混在」し、更に第三段階で後醍醐「怨霊化」などの「加筆・改訂」がなされた、と考える訳ですね。
このように兵藤氏は『難太平記』を出発点とする独自の演繹的手法によって、第一段階の「原太平記」、第二段階の改訂版「原太平記」、そして第三段階の再改訂版「原太平記」を想像される訳ですが、現実には、たとえ古本といえども「原太平記」らしきもの、改訂版「原太平記」らしきものは存在せず、内容的には大同小異の再改定版「原太平記」(=現在の古本系『太平記』)しか存在しないのですから、兵藤氏の想像の当否は誰も検証できず、結局は水掛け論となりそうですね。
さて、現時点において兵藤氏の『難太平記』解釈が研究者コミュニティの誰しも賛同する「共通理解」かというと、さすがにそんなことはなくて、『太平記<よみ>の可能性 歴史という物語』(講談社選書メチエ、1995)の評価は未だ固まっておらず、あくまで四半世紀前に突如として登場した新学説に止まっていると思われます。
学問の世界の時間の流れからすれば、四半世紀は決して長い期間ではなく、そして兵藤氏が自ら認めておられるように、「研究というのは多数決の問題ではないし、新しい研究者の説がつねに正しいとも言え」ない訳ですからね。(p35)
そして、そもそも『難太平記』が史料としてどれだけ信頼できるのか、という根本的な問題も存在します。
呉座氏と並んで南北朝期の研究をリードする亀田俊和氏は、『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)において、

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 『難太平記』によって尊氏が「弓矢の将軍」と評価され、直義については同書等の諸史料が「政道」の側面を強調していることも、二頭政治論の根拠によく出される。しかし軍事・警察を掌握しているのは直義であったから、少なくともこの時期においては「弓矢」さえも直義の専権であったと言わざるを得ない。
 『難太平記』の著者今川了俊は優れた歌人で、同書以外の著書も多く文筆に優れていたので、彼の証言は学術研究においても頻繁に引用される。しかし彼の活動期間は南北朝後期であり、先に見た足利家時置文の件などからも窺えるように、後世の結果論による誇張や潤色も多いようだ。原則として、彼の言ったことをあまり真に受けるべきではないと思う。
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と述べられています。(p70)
この評価は直接には「弓矢の将軍」云々に関するもので、同書「第四章 直義主導下における幕府政治の展開」の「1 宗教政策・文化事業」を見ると、亀田氏は『難太平記』の『太平記』に関する記述についてはそれなりに信頼されているようです。(p113以下)
しかし、疑問は残ります。
例えば『難太平記』には「六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり」(大将の名越高家が討たれたので、もう一方の大将の足利殿は先皇〔後醍醐天皇〕に降参されたと太平記に書かれている)とありますが、現存する『太平記』にはこのような記述は一切ありません。
今川了俊が見たという『太平記』は現存する古本系『太平記』のどれとも一致せず、今川了俊はいったい何を見て『太平記』の成立について語っているのかすらも分からない訳です。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

『難太平記』自体がその程度の不安定な史料であるにもかかわらず、兵藤氏は「恵鎮は、北条邸跡に建立された鎮魂の寺院、宝戒寺の開山になっています。そんな恵鎮の経歴を考えると、彼の周辺で作られた「原太平記」は、後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記でしょう」などと言われますが、恵鎮が後醍醐に「鎮魂の寺院」宝戒寺の開山となること命じられたからといって、なぜそれが後醍醐の「鎮魂の物語」を自ら作ることに結びつくのか、私には理解できません。
幕府から後醍醐の「鎮魂の寺院」の開山となることを命じられるのなら、まあ、僧侶の本業ということで一応の論理が通りそうですが、そちらは天龍寺が存在していて、恵鎮は鎮魂担当から外されていますね。
また、『難太平記』には「昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに」とあるだけで、恵鎮が「原太平記」に関与した程度、役割は不明です。
恵鎮がたまたまどこかで「原太平記」を見つけて、その内容をロクに確認もしないまま直義に持っていって、何じゃこれは、と怒られたのか(最弱パターン)、あるいは恵鎮が自分の所管する寺院に『太平記』編纂所を設けて、配下の僧侶に個別具体的な指示を与えて分担執筆させ、自身が編集者となったのか(最強パターン)。
まあ、直義は恵鎮に命令すれば一時的な差し止めは可能と判断したようですから、さすがに最弱パターンはないでしょうが、それ以上には恵鎮の関与の程度は全く不明と言わざるをえないですね。
総じて『難太平記』という不安定な史料に基づき、根拠の薄い想像を重ねる兵藤説は、砂上の楼閣とまでは言わないにしても、薄氷の上の論理だな、という感じがします。
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