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BY 鈴木小太郎

「巻六 おりゐる雲」(その1)─女御入内(西園寺公子)

2018-01-14 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月14日(日)12時32分42秒

それでは「巻六 おりゐる雲」に入ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p19以下)

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 春過ぎ夏たけて、年去り年来たれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣の第二の御むすめ、御参り給ふ。女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、かかるためしは数多侍るべし。十二月十七日豊のあかりの頃なれば、内わたり花やかなるに、いとどうち添へて今めかしうめでたく、その日御消息を聞え給ふ。

  夕暮をまつぞ久しきちとせまで変らぬ色の今日のためしを

関白書かせ給ひけり。紅の匂ひの箔もなき、八重に重ねたるを、結びて包まれたり。
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春が過ぎ、夏も深まり、年が去って新しい年がやってくると康元二年(1256)です。
太政大臣・西園寺実氏(1194-1267)と四条貞子(北山准后、1196-1302)の間に生まれた二人の姉妹のうち、長女・姞子(大宮院、1225-92)は既に仁治三年(1242)、十八歳で践祚したばかりの後嵯峨天皇に女御として入内し、直ぐに中宮となっています。
その十四年後の康元二年、今度は妹の公子(東二条院、1332-1304)が後深草天皇(1243-1304)に女御として入内します。
「過ぐし給へる程なれど」について、井上氏は「ふけた御年配だが」と冷たく訳されていますが、この後で更に具体的な年齢差が出てきます。
なお、関白は鷹司兼平(1228-94)で、建長四年(1252)に兄・近衛兼経(1210-59)の譲りを受けて摂政となり、建長六年(1254)に関白となっています。

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 時なりぬとて人々まう上り集まる。女御の君、裏濃き蘇芳七、濃き一重、蘇芳の表着、赤色の唐衣、濃き袴たてまつれり。准后添ひて参り給ふ。みな紅の八、萌黄の表着、赤色の唐衣着給ふ。出車十両、みな二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿<大きおとどのむすめ>、右に二条殿<公俊の大納言女>、二の左按察の君<准后の妹>、右に中納言<実任のむすめ>、三の左に、民部卿殿、右別当殿、その次々くだくだしければとどめつ。御童、下仕へ、御はした、御雑仕、御ひすましなどいふものまで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所あるべし。
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「准后」は母親の四条貞子(北山准后)で、この年、既に六十一歳です。
「二条殿」は「公俊の大納言女」だそうですが、井上氏は「公俊大納言という人はこのころいない。建長三年(一二五一)五十八歳で出家した従二位非参議三条公俊の娘か。詳細は不明」と言われています(p24)。
大納言と「非参議」ではあまりに差がありすぎますし、太政大臣実氏の娘という「一条殿」に続く存在ですので、「二条殿」も相当高い身分の女性でなければなりません。
従って、この部分は不明と言う以外ないようですね。
「その次々くだくだしければとどめつ」(以下はわずらわしいから省略する)は例によって語り手の老尼がちょっと顔を出している部分です。

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 御せうとの殿ばら、右大臣公相、内大臣公基参り給ふ。限りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、いよいよいつかれ給ふさま、言はんかたなし。侍賢門院の、白河の院の御子とて、鳥羽院に参り給へりしためしにやとぞ、心あてには覚え侍りし。
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公子の「御せうと」(兄)のうち、西園寺公相(1223-67)は後に太政大臣となりますが、年上の公基(1220-75)は内大臣から右大臣に転じたのち、正嘉二年(1258)に右大臣を辞して以降、散位で晩年を過ごします。
この兄弟の関係には若干の複雑な事情があったようです。
「院の御子にさへし奉らせ給へれば」は後嵯峨院が公子を猶子とした、という意味ですね。
「心あてには覚え侍りし」は再び語り手の老尼が顔を出した部分で、「当て推量にはそう思った」という意味です。

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 御門のひとつ御腹の姫宮、このごろ皇后宮とて、その御方の内侍ぞ御使ひに参る。まうのぼり給ふ程も、女御はいとはづかしく、似げなき事に思いたれば、とみにえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀一条殿、御几帳按察殿、御火とり中納言持たれたりけり。上は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける。御門きびはなる御程を、中々あなづらはしきかたに思ひなし聞こえ給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞こえかかり給ふを、准后はうつくしと見奉らせ給ふ。御ふすまは、紅のうち八つ四方なるに、上にうはざしの組あり。糸の色などきよらにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣も、三日が程はさぶらひ給ふ。上達部勧盃あり。
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「御門のひとつ御腹の姫宮」(後嵯峨院の同母妹の姫宮)は土御門院皇女の曦子内親王(1224-62、仙華門院)で、実際には同母ではないですね。
「皇后」といっても天皇との配偶関係はなく、内親王などの高貴な女性を処遇する地位のことですが、その皇后に仕える内侍が天皇の使いとして女御(公子)のもとに来ます。
「女御はいとはづかしく、似げなき事に思いたれば」とは、公子が天皇との年齢差を似つかわしくないことと思って、という意味ですが、先に「過ぐし給へる程なれど」(ふけた御年配だが)と言った点にここで再び注意を向けた上で、「上は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける」と具体的な年齢差が十一であることを明示しています。
この後は若干意味の取りにくい部分がありますが、井上氏によれば「天皇(後深草)が幼少の御年ごろなのを、(女御が、まだ御子供ではないかと)軽くお思い申しなされそうであるのに、かえって天皇が、(年ごろよりも)たいそうあだめいて、恥かしそうでもなくお話しかけなさるのを、准后はかわいらいとお見上げなさる」ということで、言葉は丁寧ですが、年齢差への執拗なこだわりが伺えます。
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