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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その50)─高橋秀樹氏の場合

2023-11-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私は高橋秀樹氏(國學院大學教授)を長村祥知氏と並ぶ「慈光寺本妄信歴史研究者」の「大将軍」と位置付けています。
高橋氏は長く文部科学省教科書調査官を務められ、『古記録入門(増補改訂版)』(吉川弘文館、2023)の著者で、『吉記』『勘仲記』等の詳細な注釈書も多数出されている方ですので、一般には手堅い実証的な研究者と思われているはずです。
しかし、高橋氏の慈光寺本に対する態度は手堅いとは言えず、むしろ相当に大胆ですね。
例えば高橋氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、

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 後白河法皇と源頼朝の時代から、朝廷が幕府に求めていたものは、朝廷の求めに応じて治安を維持し、費用の調進を請け負ってくれる、都合のいい存在としての幕府だった。院が地頭の停廃を要求しても、それを聞き入れてくれなければ、朝廷主導とはいいがたい。頼朝時代には、ほとんどの場合、地頭停廃要求は聞き入れられていた。
 ところが、後鳥羽上皇が寵愛する舞女亀菊に与えた摂津国長江荘の地頭停止を義時に要求したところ、義時自身が地頭だったことから、これを拒んだ。慈光寺本『承久記』はこのことが承久の乱のきっかけだったと記している。古活字本『承久記』は義時が地頭だったとは記していないが、亀菊に与えた摂津国長江・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭停止を義時が拒んだことを理由としている点は同じである。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f7d97621d88d35d73046714ce3e72e5

とされていて(p99)、メルクマール(1)はあっさりクリアーされています。
また、義時追討の院宣についても、

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【前略】後鳥羽上皇の義時追討の命令が下された対象として慈光寺本『承久記』が記載しているのは、武田・小笠原・小山・宇都宮・中間(未詳)・足利氏と三浦義村、さらに北条時房である。時房の名がみえることは、後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあったことを物語っていよう。ただし、古活字本『承久記』には時房や足利義氏・中間五郎の名はみえず、千葉・葛西が加わっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

と書かれていて(p103)、メルクマール(2)もあっさりクリアーです。
それにしても、「時房の名がみえること」から「後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあった」と推論し、「義時一人の排除」で後鳥羽は満足、という純度100%の義時追討説を取られている点は、「慈光寺本妄信歴史研究者」の中でもかなり珍しい立場ですね。
高橋氏がこうした境地に到達された理由をつかみかねた私にとって、ヒントとなったのは『三浦一族研究』第3号(1999)の「第五回三浦一族シンポジウム」の記録でした。
このシンポジウムの基調講演は「聖徳大学教授」野口実氏ですが、パネリストの一人であった「放送大学講師」高橋秀樹氏は、野口氏の講演を受けて、

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 最初に、野口先生もおっしゃっておられましたけれども、実は承久の乱の研究はあまり進んでおりません。それは、史料がほとんどないというのが理由なんです。普通でしたら、『吾妻鏡』がありますし、公家の日記というのがかなりこの時代残っているはずなんですが、みごとに承久の乱の前後というのは公家の日記がないんですね。現存するものがない。『吾妻鏡』も承久の乱が起こったということ、挙兵したという第一報が届けられたというところから始まって、事件の経過や事件の処理が書いてあるだけでして、どういう過程でこの戦が起こったのか、或いは後鳥羽上皇は何を考えていたのかが分からない。そうなると、殆ど唯一の史料として使えるのが『承久記』という軍記ものです。ところが、『平家物語』とかその他の軍記ものもそうなんですが、こういう作品の特質としまして、色々な種類の本がある。日記等を写すときには正確に写そうとしますけれども、物語のようなものは写されていくのと同時にどんどん改編【ママ】されていってしまう、中身が変えられていく。そこでこの『承久記』もどの本によって考えるかでこの乱の評価が変わってきてしまいます。
 今日のお話は多分、古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多いかと思うんですが、実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております。慈光寺本と呼ばれる本で、岩波の新古典文学大系に入ったんで非常に読みやすくなった本です。それを使うとちょっと承久の乱に対する評価が変わってくるんじゃないかと思っております。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54a9ec4ee342c12b3a4d1c319cca2605

とされています。
これを見ると、慈光寺本偏重もあくまで近年の新しい動きであることが分かりますね。
「総大将」の野口実氏自身、1990年の「ドキュメント承久の乱」(『別冊歴史読本11月号 後鳥羽上皇』所収、新人物往来社)では『吾妻鏡』と流布本に依拠して書かれています。
さて、高橋氏は、

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 その慈光寺本によりますと、胤義が義村に手紙を書きますが、その中では北条氏に変わる立場に兄弟二人で立とうではないかということを言っているんですね。おそらく後鳥羽の意図は最初そういうところにあった。
 ところが、そういう意図で起こされた戦いにもかかわらず、それが鎌倉側では北条政子の大演説によって、北条義時相手の戦争が、幕府相手の戦争と意識されるようになってきた。後鳥羽側も、最初味方につけようとしていた寺社勢力、その他の権門が動いてくれなかった。結局、朝廷の中での後鳥羽が浮き上がってしまった。結果として鎌倉幕府との戦いになってしまった。そのように解釈できるのではないかなと思っています。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d69498a5f1fa00eee24d28147a8dc444

とされます。
私には空想的な義時追討計画を含む胤義の手紙は慈光寺本作者の創作としか思えないのですが、高橋氏はその内容を史実と考え、かつそれが「後鳥羽の意図」を反映しているものとされている訳ですね。
『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)も読んでみて、高橋氏の場合、ここまで慈光寺本を偏愛されるようになったのは、宝治合戦前の三浦一族の地位が極めて高かったとするご自身のかねてからの持論に慈光寺本がうまく適合する(ように見える)ことが理由のように思われました。
慈光寺本に関して、私には高橋氏に同意できることは殆どありませんが、高橋氏の著作により三浦一族に関する知識が増えたことと、権門体制論が「慈光寺本妄信歴史研究者」に相当な影響を与えているらしいことを確認できたことは有益でした。

高橋秀樹氏の研究史整理(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ebd70f362ddd69b46f617a8385ddb26
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d48cfba1b956fa3ec0aee0a64daef2b

高橋秀樹氏『三浦一族の研究』の「本書の課題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e80a4adbf7ee279d940a0618604de9f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b4f19cb7bcce2473950e1db3873f1171
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