学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その59)─「後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)を見たら、「第七章 三浦義村と中世国家」に、

-------
 一方、後鳥羽上皇方に付いた弟胤義は、墨俣で敗れ、勢多でも敗れて京都に戻った。敗戦を上皇に報告すると、上皇は戦後処理に取りかかり、胤義は義村の手にかかって死のうと、三浦・佐原の軍勢がいる東寺に向かった。そこでの胤義と義村のやりとりが、慈光寺本『承久記』に描かれている。
-------

とありましたが(p195)、胤義は「墨俣で敗れ」てはいません。
慈光寺本には、

-------
 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

とあって(岩波新大系、p345)とあって、胤義が敗れたのは「大豆渡」(『吾妻鏡』では「摩免戸」)ですね。
墨俣は山田重忠と藤原秀澄の担当ですが、慈光寺本では、

-------
 洲俣固メタル河内判官ハ、夜ベノ戌時ニ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0

と僅か一行で済まされている上、「河内判官」藤原秀澄だけで、山田重忠の名前がありません。
慈光寺本では、後鳥羽院の叡山御幸の後も、山田重忠は墨俣から近い距離にある杭瀬河に踏みとどまって徹底抗戦したというストーリーになっているので、墨俣での敗北を目立たないようにしたのでしょうね。
なお、流布本では、

-------
 平九郎判官、「已に大炊渡破るゝ事こそ安からね。胤義、罷向て一軍せん」とて、下総前司・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉を始として五百余騎、大炊渡へとて打向。能登守、被申けるは、「已大炊渡破れて、東山道の大勢打入たり。後ろを被推隔、中に被取籠(ては)勇々敷大事也。平九郎判官殿宣ふは、事可然共不覚。君も『尾張河破れ(な)ば、引退て宇治・勢多を防げ』とこそ被仰下候しか。秀安に於ては罷上る成」とて引退く。平九郎判官、口惜は思へ共、宗徒の者共角云間、力不及引て落行けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6024daabee36d9b91265f6459d2ecaf3

とあって、「平九郎判官」胤義は大井戸が敗れたと聞いて、大井戸を渡河してから西方へ殺到する幕府方の東山道軍を迎え討とうとしますが、「能登守」藤原秀康に止められて、仕方なく自分も落ちて行くということで、些か武士の意地を見せようとします。
慈光寺本のあまりにさっぱりした描き方と比較すると、流布本の胤義の描き方は丁寧ですね。
また、流布本の「胤義、罷向て一軍せん」とて、下総前司・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉を始として五百余騎、大炊渡へとて打向」は、尾張河合戦においても、藤原秀康・三浦胤義以下の京方主力が「遊軍」として位置づけられていたことを示すものと私は考えます。

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その9)─尾張河合戦での「遊軍」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa6707fc53f0f162bcb11a7de366dcc2

ま、それはともかく、高橋氏は「墨俣で敗れ、勢多でも敗れて」と二重に間違えておられ、高橋氏が胤義を山田重忠と混同されているのは明らかです。
さて、『人物叢書 三浦義村』に戻ると、「六 戦後処理を担う」には高橋氏の卓見が随所に見られますが、私の当面の関心と重なる部分は少ないですね。
後鳥羽院の隠岐「配流」に関する記述は僅少であり、メルクマール(4)の「逆輿」への言及もありません。
ただ、高橋氏が「十三日には後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)が決定した(『百錬抄』)」(p138)と書かれている点は非常に興味深いですね。
去年の年末、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で後鳥羽院が「逆輿」で流された場面を見て、慈光寺本だけにしか存在しない「逆輿」エピソードが史実なのか疑問に思った私は、最初に『太平記』で後醍醐天皇の場合を確認してみたのですが、兵藤裕己校注『太平記(一)』(岩波文庫、2014)には、

-------
  先帝遷幸の事、幷〔ならびに〕俊明極参内の事

 先帝をば承久の例に任せて、隠岐国に移しまゐらすべきに定まりにけり。臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子を御位に即け奉つて、先帝御遷幸の宣旨をなさるべしとぞ計らひ申しける。【後略】
-------

とあります。(p195以下)
いろいろ調べても、東国はともかく、朝廷の先例としては「逆輿」はなかったようであり、私としては「逆輿」は慈光寺本の脚色か、あるいは後発的な「坂輿」の誤写だろうと考えています。
承久の乱の戦後処理においても、七月八日に守貞親王(後高倉院)が治天の君と定められ、翌九日に新帝践祚(後堀河天皇)となっているので、後醍醐天皇の場合と同じく、新帝による後鳥羽院「御遷幸の宣旨」が出され、刑罰としての「配流」ではなく、単に引越しを願ったという形式にしたのではなかろうかと思います。
高橋氏も「後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)」とされ、形式的には「配流」ではないという立場ですから、あるいは私と同様に考えておられるのかもしれません。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67ff8f511d6b4aedc9e71cb36bc4a6da
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d80f970b573162ce8be9edfabe51b90
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「慈光寺本妄信歴史研究者交... | トップ | 「慈光寺本妄信歴史研究者交... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事