学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「第五回三浦一族シンポジウム」(その1)

2023-02-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

三浦氏に特に関心がなかった私は上杉孝良氏のお名前も知りませんでしたが、横須賀の郷土史を中心に多くの著書を出されている方ですね。

https://uesugi2.mystrikingly.com/

また、私は『三浦一族研究』も初めて手にしましたが、なかなかレベルの高い雑誌ですね。
上杉論文が載っている第3号(1999)には「第五回三浦一族シンポジウム」の記録もあり、こちらも大変参考になりました。
このシンポジウムの基調講演は「聖徳大学教授」野口実氏がされていて、パネリストは野口氏の他に「神奈川県地域史研究会委員」の伊藤一美氏と「放送大学講師」高橋秀樹氏、司会は「NHK文化センター講師」の鈴木かほる氏です。
特に興味深いのは高橋秀樹氏の見解で、私は先月五日の投稿で高橋氏の『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)に触れて、「慈光寺本『承久記』の極端な重視、というか偏愛が溢れていて、ちょっとびっくり」など書いたのですが、この時にはどうにも理解できなかった高橋氏の発想のルーツが、このシンポジウムでの発言記録で分かったように感じました。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

まず、司会者から発言を求められた高橋氏は、若干の前置きの後、次のように述べられます。(p68以下)

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 最初に、野口先生もおっしゃっておられましたけれども、実は承久の乱の研究はあまり進んでおりません。それは、史料がほとんどないというのが理由なんです。普通でしたら、『吾妻鏡』がありますし、公家の日記というのがかなりこの時代残っているはずなんですが、みごとに承久の乱の前後というのは公家の日記がないんですね。現存するものがない。『吾妻鏡』も承久の乱が起こったということ、挙兵したという第一報が届けられたというところから始まって、事件の経過や事件の処理が書いてあるだけでして、どういう過程でこの戦が起こったのか、或いは後鳥羽上皇は何を考えていたのかが分からない。そうなると、殆ど唯一の史料として使えるのが『承久記』という軍記ものです。ところが、『平家物語』とかその他の軍記ものもそうなんですが、こういう作品の特質としまして、色々な種類の本がある。日記等を写すときには正確に写そうとしますけれども、物語のようなものは写されていくのと同時にどんどん改編【ママ】されていってしまう、中身が変えられていく。そこでこの『承久記』もどの本によって考えるかでこの乱の評価が変わってきてしまいます。
 今日のお話は多分、古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多いかと思うんですが、実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
野口氏の基調講演では慈光寺本への言及もありますが、例の義時追討の院宣について、「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西ら」に下したと書かれていて、これは流布本(古活字本)の順番通りです。
即ち、流布本には、

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東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、七人だけなので「ら」は変ですが、流布本に従っていることは明らかです。
ちなみに慈光寺本では、

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 又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、『秀康、是ヲ承レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシ』トゾ仰下サル。秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

となっていて、流布本と比べると千葉・葛西が存在しない代わりに「中間五郎」と足利義氏・北条時房の三人が加わって、合計八人になっています。
この他、一々指摘はしませんが、野口氏の基調講演が「古活字本といわれる一般的に流布している本に基づいてお話をされていた部分が多い」ことは確かですね。
さて、「実は最近、それとは違う系統のもう少し古い良い本があるぞということが着目されております」の続きです。(p69)

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慈光寺本と呼ばれる本で、岩波の新古典文学大系に入ったんで非常に読みやすくなった本です。それを使うとちょっと承久の乱に対する評価が変わってくるんじゃないかと思っております。野口先生は、基調講演の中で承久の乱というのは後鳥羽院という権門と幕府との戦さなんだという評価をなさいました。確かに、結果的にはそうなったんだと思います。ただその『承久記』の慈光寺本を見ていきますと、後鳥羽の最初の意図とするのはそうではなかったんではないかという気がしているんです。通説では、幕府に近い九条とか西園寺というのは後鳥羽の謀議からは外されたと言われています。ところが、慈光寺本を見ますと、九条道家は後鳥羽の下で開かれた公卿会議のメンバーに入っています。しかも彼は仲恭天皇が即位した段階で摂政の地位に就いているんですね。仲恭天皇は承久の乱の少し前に即位しますが、後に九条廃帝と言われた天皇です。
 承久の乱が終わって、後堀河という天皇が擁立されますが、その時には道家は失脚しているんですね。替って近衛家実が摂政になっている。そうなると、どうも道家は承久の乱と無関係ではないだろうという感じがしてきます。でも道家の子九条頼経というのが、鎌倉に下っていますから彼が息子を見殺しにすることはない。あれは実は、後鳥羽を中心とする朝廷が北条義時相手にやった戦争、しかけた戦争なんですね。そういうふうに解釈できるんではないか。後鳥羽の意図としては頼経をそのままにしておいて北条氏に変わって三浦氏を北条氏の立場に置く。
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慈光寺本では亀菊エピソードの最後に「公卿僉議」と、そこで出た「近衛殿」(基通)の消極意見に対する卿二位の反論が出てきます。
確かに「公卿僉議」の参加者には九条道家が含まれるので、慈光寺本だけに存在するこの話を信じるのであれば、「どうも道家は承久の乱と無関係ではないだろうという感じ」もしてきますね。
ただ、高橋氏が卿二位の反論なども信じるのであれば、私は若干の疑問を感じます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

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