学問空間

「『増鏡』を読む会」、第6回は1月25日(土)に開催します。テーマは「美福門院から見た平治の乱」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その10)─北条義時と後鳥羽院の登場

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

源氏三代に進みます。(p303以下)

------
 頼朝卿、度々〔たびたび〕都ニ上リ、武芸ノ徳ヲ施〔ほどこ〕シ、勲功無比〔たぐひなく〕シテ、位〔くらゐ〕正二位ニ進ミ、右近衛ノ大将ヲ経タリ。西ニハ九国〔くこく〕二島、東ニハアクロ・ツガル・夷〔ゑびす〕ガ島マデ打靡〔うちなびか〕シテ、威勢一天下ニ蒙〔かうぶ〕ラシメ、栄耀〔えいえう〕四海ノ内ニ施シ玉フ。去程〔さるほど〕ニ、建久九年<戊午>十二月下旬ノ比、相模川ニ橋供養ノ有シ時、聴聞ニ詣玉〔まうでたまひ〕テ、下向ノ時ヨリ水神ニ領〔りやう〕ゼラレテ、病患頻〔しきり〕ニ催シテ、半月ニ臥シ、心身疲崛〔ひくつ〕シテ、命〔いのち〕今ハ限〔かぎり〕ト見ヘ給フ時、孟光〔まうくわう〕ヲ病床ニ語〔かたらひ〕テ曰ク、「半月ニ沈ミ、君ニ偕老〔かいらう〕ヲ結〔むすび〕テ後、多年ヲ送〔おくり〕キ。今ハ同穴〔どうけつ〕ノ時ニ臨メリ」。嫡子少将頼家ヲ喚出〔よびいだし〕、宣玉〔のたま〕ヒケルハ、「頼朝ハ運命既ニ尽ヌ。ナカラン時、千万〔せんまん〕糸惜〔いとほしく〕セヨ。八ケ国ノ大名・高家ガ凶害ニ不可付〔つくべからず〕。畠山ヲ憑〔たのみ〕テ日本国ヲバ鎮護スベシ」ト遺言ヲシ給ヒケルコソ哀〔あはれ〕ナレ。
 少将イマダ有若(亡)〔うじやくまう〕ノ人ナレバ、父ノ遺言ヲモ用玉〔もちひたま〕ハズ、梶原平三景時ゾ後見〔うしろみし〕奉ケル。人、唇ヲ反〔かへ〕シケリ。生年十六ニテ左衛門督ニ成〔なる〕。六年ゾ世ヲ持チ給ケル。然〔しかる〕ニ、ナセル忠孝ハナクシテ栄耀に誇〔ほこり〕、世ヲ世トモ治メ玉ハザリケレバ、母儀〔ぼぎ〕・伯父〔をぢ〕教訓ヲ加フレドモ、用ヒ玉ハズ。遂ニハ元久元年<甲子>七月廿八日、伊豆国修善寺ノ浴室ニオキテ、生害〔しやうがい〕サセ申〔まうす〕。舎弟千万若子〔わかご〕、果報ヤマサリ玉ヒケン、十三ニテ元服有テ、実朝トゾ名ノリ給ケル。次第ノ昇進不滞〔とどこほらず〕、四位、三位、左近ノ中将ヲヘテ、程ナク右大臣ニ成玉フ。徳ヲ四海ニ施シ、栄ヲ七道耀〔かかやか〕シ、去〔さんぬる〕建保七年<己卯>正月廿日、右大臣ノ拝賀ニ勅使下向有テ、鎌倉ノ若宮ニヲキ拝賀申サレケル時、舎兄〔しやきやう〕頼家ノ子息若宮別当悪禅師〔あくぜんじ〕ノ手ニカゝリ、アヘナク被誅〔ちうせられ〕給ケリ。凡〔およそ〕三界ノ果報ハ風前ノ灯、一期〔いちご〕ノ運命ハ春ノ夜ノ夢也。日影ヲマタヌ朝顔、水ニ宿レル草葉ノ露、蜉蝣〔かげらふ〕ノ体ニ不異〔ことならず〕。
-------

分量は、

 頼朝 9行
 頼家・実朝(二人合わせて) 11行

で、合計20行ですね。
内容で若干分かりにくいのは「孟光」ですが、久保田氏の脚注によれば「妻北条政子をさす。本来は後漢の梁鴻の妻。醜貌であったが徳行を修め、人々に尊敬された」とのことです。
その他、頼家が「生年十六ニテ左衛門督ニ成」は正治二年十九歳の時の誤り、頼家殺害の「元久元年<甲子>七月廿八日」は十八日の誤りですが、まあ、細かいことで、記事全体は概ね正確ですね。
さて、流布本では後鳥羽院の後に北条義時が登場しますが、慈光寺本では源氏三代の説明をあっさり済ませた後、いきなり義時が大野心家として登場します。
この点は既に何度か紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。(p304)

-------
 爰〔ここ〕ニ、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」。同年夏ノ比、相模守時房ヲ都ニ上〔のぼせ〕テ、帝王ニ将軍ノ仁〔じん〕ヲ申サレケリ。当時ノ世中〔よのなか〕ヲ鎮〔しづ〕メントテ、右大将公経卿外孫、摂政殿下ノ三男、寅年寅日寅時ニ生レ給ヘレバ、童名〔わらはな〕ハ三寅〔みとら〕ト申〔まうす〕若君ヲ、建保七年六月十八日、鎌倉ヘ下〔くだし〕奉ル。風諫〔ふうかん〕ニハ伊予中将実雅〔さねまさ〕、後見ニ右京権大夫義時トゾ定メ下サレケル。争〔いかで〕カ二歳ニテハトテ、三ト云名ヲ付奉リテ、十八日ヨリ廿日マデ、年始元三〔ぐわんざん〕ノ儀式ヲ始テ御遊〔ぎよいう〕アリ。七社詣〔まうで〕シテ鎌倉ニ座〔おはしま〕ス。
-------

分量は8行ですね。
そして義時の後に後鳥羽院が登場します。

-------
 爰〔ここ〕ニ、太上天皇〔だいじやうてんわう〕叡慮動キマシマス事アリ。源氏ハ日本国ヲ乱〔みだ〕リシ平家ヲ打平〔うちたひ〕ラゲシカバ、勲功ニ地頭職ヲモ被下〔くだされ〕シナリ。義時ガ仕出〔しいだし〕タル事モ無〔なく〕テ、日本国ヲ心ノ儘ニ執行〔しゆぎやう〕シテ、動〔ややも〕スレバ勅定〔ちよくぢやう〕ヲ違背スルコソ奇怪〔きつくわい〕ナレト、思食〔おぼしめさ〕ルゝ叡慮積〔つも〕リニケリ。凡〔およそ〕、御心操コソ世間ニ傾ブキ申ケレ。伏物、越内、水練、早態、相撲、笠懸ノミナラズ、朝夕武芸ヲ事トシテ、昼夜ニ兵具ヲ整ヘテ、兵乱ヲ巧〔たくみ〕マシマシケリ。御腹悪〔あしく〕テ、少モ御気色ニ違〔たがふ〕者ヲバ、親〔まのあた〕リ乱罪ニ行ハル。大臣・公卿ノ宿所・山荘ヲ御覧ジテハ、御目留〔とま〕ル所ヲバ召シテ、御所ト号セラル。都ノ中ニモ六所アリ。片井中〔かたゐなか〕ニモアマタアリ。御遊ノ余ニハ、四方〔よも〕ノ白拍子ヲ召集〔めしあつめ〕、結番、寵愛ノ族〔やから〕ヲバ、十二殿ノ上、錦ノ茵〔しとね〕ニ召上〔めしのぼ〕セテ、蹈汚〔ふみけが〕サセラレケルコソ、王法・王威モ傾〔かたぶ〕キマシマス覧〔らん〕ト覚テ浅猿〔あさまし〕ケレ。月卿雲客相伝ノ所領ヲバ優〔いう〕ゼラレテ、神田・講田十所ヲ五所ニ倒シ合〔あはせ〕テ、白拍子ニコソ下シタベ。古老神官・寺僧等、神田・講田倒サレテ、歎ク思〔おもひ〕ヤ積〔つもり〕ケン、十善君忽〔たちまち〕ニ兵乱ヲ起給〔おこしたま〕ヒ、終ニ流罪セラレ玉ヒケルコソ朝増〔あさまし〕ケレ。
-------

分量は義時より多く、13行です。
ここは松林靖明氏によって「慈光寺本は、後鳥羽院をきわめて手厳しく批判的に描いている」とされる部分ですが、しかし流布本と比較すると非難の程度はさほどでもなく、我儘で無駄に敵を作ってしまった程度の話ですね。

何故に藤原能茂を慈光寺本作者と考える研究者が現れなかったのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eabb3d82a87a07dbc7a4cbad9bbd1f93
慈光寺本と流布本における後鳥羽院への非難の度合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb62397dc9e151b0c81686908ac984f4

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もしも三浦光村が慈光寺本を... | トップ | もしも三浦光村が慈光寺本を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事