学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

流布本・慈光寺本『承久記』の検討を再開します。

2023-04-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

※追記(2023年4月24日)
流布本作者を藤原秀能とする仮説は無理が多く、全面的に撤回しましたが、この記事はそのまま残しておきます。

流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

 

二ヶ月前、

 1.慈光寺本の作者は藤原能茂
 2.能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
 3.能茂の目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

という仮説の下、多くの歴史研究者のように慈光寺本を「つまみ食い」するのではなく、慈光寺本の全体像を具体的かつ網羅的に検証するとの方針を立てました。

第一回中間整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff3509b1f4471cb702cb80ee133f2c8d

そして、流布本の作者についても、藤原秀能ではないかとの一応の見通しを立てました。

流布本の作者について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93233b1dcf18f7be733b1bf66fc91c33
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b30ed265c22c723332caed683b7db19f

今回、慈光寺本・流布本を伊賀光季追討記事まで網羅的に検討した結果を踏まえ、新たに流布本について、

 1.流布本の作者は藤原秀能
 2.秀能が想定した読者は北条泰時以下の幕府指導者
 3.秀能の目的は、承久の乱における幕府の対応と戦後処理が正当であったことを歴史的・思想的
  に検証して幕府指導者に安心感を与え、もって後鳥羽の還京を進めること。

という仮説を立てました。
この二つの仮説が本当に正しいかを、これから慈光寺本・流布本の残り全部を丁寧に読みつつ、熟考して行きたいと思います。
私は慈光寺本については自分の仮説を微塵も疑っていませんが、流布本には作者を藤原秀能と考える上で障害となる記述があります。
例えば、流布本には最勝四天王院について、

-------
 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を差遣し、被攻しかば、是も難遁〔のがれがたし〕とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は眼前なり。故大臣〔おとど〕殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白川の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名〔なづけらる〕。されば大臣殿、無程被打しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊〔こぼされ〕にけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbfaad2700f257e7b5bb90873be67321

とありますが、秀能は「最勝四天王院障子和歌」の作者の一人であり(二首、高砂と鳴海浦)、最勝四天王院が、少なくとも承元元年(1207)の建立の時点では「関東調伏の堂」などではなかったことは熟知している人です。
その秀能がこのような書き方をすることがあり得るのか。
私の一応の解釈としては、ここは後鳥羽院の倒幕の意図を強調しようとする場面であり、また、建立の時点では怪しい意図はなかったとしても、承久元年(1219)七月の破却の経緯には相当に疑わしい点もあるから、このような書き方になったのだろうと考えますが、説明としては弱いかもしれません。
ま、私も秀能については自分の仮説に固執するつもりはなく、今後、流布本を読み進める過程で更に矛盾が生じたならば、その時点で自説を撤回、ないし修正したいと思います。
ということで、伊賀光季追討記事の続きから検討を再開します。
私は流布本の原型、といっても現在の流布本から後鳥羽院の諡号を除いた程度のものが慈光寺本に先行すると考えるので、まずは流布本の原文を確認し、ある程度区切りの良いところで慈光寺本も検討する、という順番で進めたいと思います。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b26323766357635b77c96397322fb65e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25b33642bd703dd0ec7407be3bd7fa12
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba727054dbbd9d689da0a798b3db294c

また、原文を読み進める中で、たまには理論的な話をしたくなる場合もありそうです。
慈光寺本を「妄信」する研究者に権門体制論者が多いことから、権門体制論については既に若干の検討を加えていますが、この議論を更に深める必要が生じたならば、その時点で改めて議論したいと思います。

第一回中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3db8eba6474bd92bf295c5e187f93141
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77fb0ef4bc57fe064f380ba09d0cbf3f

ところで、最近、歴史学界の「ガーシー」東島誠氏(立命館大学教授)が『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』(NHKブックス、2023)という本を出されました。
私はかねてからガーシーには極めて批判的で、この本もたぶん駄目な本だろうなと思って書店で手に取ったところ、予想通り駄目な本でした。
ただ、権門体制論と東国国家論について若干の分析があり、また、「謀叛」と「謀反」の問題など、学問的にそれなりの価値がある議論もごく僅かに存在します。
そこで、少し理論的な話がしたくなった場合には、ガーシー本を「他山の石」として使うかもしれません。

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武力だけでは権力を維持できなかった。正統性なき政権の、支配の正当性とは何か。
700年におよぶ”武士の政権”について、私たちはどれほど本当に知っているだろうか。「清和源氏でなければ征夷大将軍になれなかった」「”鎌倉幕府”は後世の学術用語で、当時は使われていなかった」などの数々の誤解を正すところから始め、古典から最前線までの学説も総括。「京都を食糧で満たす」ことが正当性の根拠となった古代の「都市王権」から、「法の支配」も意識された鎌倉・室町期を経て、「伝統としての権力」が強調される江戸時代までをたどりながら、支配の正当性がその折々にどうアップデートされてきたのかを、歴史学・政治学・社会学・哲学の垣根を越えて描き出す。日本史を見る眼が一変する、かつてないスケールの歴史書!

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912772023.html

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