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網野善彦を探して(その2)─「民学同」と「全学連」

2019-01-12 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月12日(土)12時51分51秒

1948年11月に結成され、網野善彦が「副委員長兼組織部長」に就任したという「民主主義学生同盟(民学同)」については、内田力氏の注記に導かれて『資料 戦後学生運動1』(三一書房、1968)所収の「民主主義学生同盟結成趣意書」・「民主主義学生同盟結成宣言」を読んでみましたが、これだけでは実態が分りにくいですね。
そこで、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(現代の理論社、1976)から「民学同」に言及している部分を少し紹介したいと思います。

安東仁兵衛(1927-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E4%BB%81%E5%85%B5%E8%A1%9B

比較対照のため、まず学生運動団体としては「民学同」より遥かに有名な「全学連」に関係する部分を引用します。(p47以下)

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第二章 全学連と党中央との軋轢

   全学連の結成と四八年の夏

 六・二六ゼネストの成功は圧倒的であった。その余勢を駆って、全学連が生まれた。九月十八日から三日間の大会をもって全日本学生自治会総連合が結成された。「『手をつなごう。ロンドを組もう。平和のロンドを。そしてこれに手をふれる者にご用心』とのロマン・ローランの叫びをわれわれの叫びとしよう。史上最後のファシズムを打倒するために。」結成宣言は高く、誇らしく結ばれていた。輝ける委員長に武井昭夫、書記長には高橋英典が選ばれた。本部は東大構内の北端、生協の第二食堂のある建物の一階に置かれた。井出正敏、小林栄三らが書記局員となった。井出は武井と同じ都立高校出身の法学部の秀才、小林は正式には"ニャーゴロフ"略称"ネコ"と呼ばれた二高出身の経済学部の活動家である。待望久しき全国的闘争組織の誕生である。そして翌四九年の九月、まる一年を経て全学連は国際学連の第四回代表者会議において加盟を承認された。代表派遣はGHQの拒否にあい、電報による申請が受理されたものであるが、その議事録には、「学生の要求のための、また日本に民主主義を確立するためのこの組織の活動はすでに、世界の新聞によって広く知られるところとなっています」と記されている。"ゼンガクレン"の名は国際的なものとなりはじめた、ということである。【中略】
 われわれにとって国際学連は誇らしく、そして貴重な存在であった。それはインターナショナリズムの象徴であり、実在であった。「学生の歌声に、若き友よ手を伸べよ」送られて来た国際学連歌の歌詞と旋律はわれわれの愛唱歌となった。国際学連と中国学連(中国学生人民連合)との連帯─メッセージの交換と闘争報告の入手は、われわれのたたかいを文字どおりに鼓舞し、激励した。GHQの検閲印が押されながらも全学連の書記局に送られて来る国際学連の機関誌、議事録、ポスターは、インターナショナリズムを実証する貴重な権威ある資料であった。国連憲章も世界人権宣言も、頭から欺瞞であるとして読もうともせず、国連に至っては第二の国際連盟、"アメリカの投票機械"であると断じていた当時のわれわれにとって、世界労連、世界民青連、そして国際学連の存在こそがインターナショナリズムであったのである。
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ということで、安東仁兵衛の描く「全学連」は実に華やかです。
ここに登場する人物は、「輝ける委員長」の武井昭夫以下、二年後の日本共産党の分裂騒動において「国際派」、即ち宮本顕治に近いグループに属する人々が多いですね。

武井昭夫(1927-2010)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%BA%95%E6%98%AD%E5%A4%AB

次に「民学同」に関する部分です。(p49以下)

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 全学連結成のはなやかさに比べるとその存在がもはや記録からも消え失せがちであるが、民学同=民主主義学生同盟の結成もこの年の夏であった。反ファシズムを旗印とするこの学生活動家組織は八月に結成を訴え、十一月に結成大会を開くが、その時点での同盟員は五千名と称した。
 学帽に附けられたUSDのバッジはけっこう学内で見掛けられたが、それをウルトラ・デタラメ・スチューデントと解し、全学連の中核部隊を自認して一時期は相当に活発で、とりわけ発足間もない新制高校の組織対策として有効であった。委員長に中森蒔人、事務局長・大沼鉄郎、文化部長・荒川幾男、財政部長・北田芳治らの顔ぶれが並んでいる。
 中森との関連で社学同=社会主義学生同盟にふれておこう。四八年当時に、木村嬉八郎、堀真琴、黒田寿男ら社会党の左派系に連る組織としてすでに存在しており、本部を駿河台の政経ビル内に置いていた。代表者的なメンバーに中森と岸という東大法学部の学生がいた。学内でさしたる活動もおこなっていなかったが、この年の暮れからすすめられた"社共合同"カンパニアのなかで実質的には解消させられたと記憶している。
 私は全学連にも民学同の結成にもタッチしなかった。それらはそれぞれのグループの活動分野と定められ、私は最初の夏休みをもっぱら学内外の細胞活動に費やしていた。【後略】
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ということで、華やかな「全学連」に比べると「民学同」はかなり地味です。
そして安東仁兵衛は「委員長中森蒔人、副委員長網野善彦、事務局長大沼鉄郎、教育宣伝部長西沢舜一、文化部長荒川幾男、組織部長網野善彦、機関紙部長中村正光、財政部長北田芳治」の七名から中森・大沼・荒川・北田の四名だけを抽出し、「副委員長兼組織部長」の網野の名前を出しません。
委員長の中森蒔人(1923-2004)は木村嬉八郎(1901-75)、堀真琴(1898-1980)、黒田寿男(1899-1986)等の社会党左派に近い人物だそうですから、網野は「社共合同」の「民学同」において共産党側の中心人物であったように思われますが、同じ共産党員だったのに何故に安東は網野に言及しないのか。
なお、中森蒔人の名前で検索したところ、リンク先のブログに詳しい紹介がありますね。

中森蒔人と図書月販「ほるぷ」(新宿書房・百人社通信サイト内)
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/column/data/Kobayashi/007.html
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