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「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)

2020-12-02 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 2日(水)11時46分33秒

前回投稿では最後の方でちょっと書き過ぎたかもしれませんが、『室町の覇者 足利義満』は一般書であり、史料の出典が乏しいのは理解できます。
桃崎氏は「初期室町幕府の執政と「武家探題」鎌倉殿の成立過程」(『古文書研究』68号、2010)と「中世前期における「管領」」(『年報三田中世史研究』20号、2013)という論文を書かれていて、そちらでは史料的根拠を含め、より詳しい分析があるかもしれないので、国会図書館に遠隔複写を依頼中です。
入手後、必要があれば改めて検討したいと思います。
さて、「建武政権論」に戻って、続きです。(p64以下)

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 直義率いる建武鎌倉府は、直義到着直後の建武元年(一三三四)正月に「関東十箇国成敗」権を得た。その十箇国は坂東八箇国+伊豆・駿河(尊氏が国司か守護)と見られ、ここに遠江・三河(一門の今川氏と尊氏が守護)と連続する東海道の強大な勢力圏が成立する。制度上、鎌倉府は雑訴決断所の地方分局であり、その専権は濫妨や年貢抑留事案の調査・審理・執行と軽微な相続紛争に限られ(重事は原告・被告の主張を整理し決断所に移管)、北畠顕家の奥州府が得たような給恩・安堵権は認められなかった。しかし直義は引付を設置し、決断所が原則行わない原告・被告の弁論応酬を行い、遵行に対する抵抗者に鎌倉幕府法を踏襲して所領三分の一没収刑を科すなど、独自に制度を整備して鎌倉府に幕府的内実を与えた。
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いったん、ここで切ります。
「建武鎌倉府」という耳慣れない表現が出てきますが、『室町の覇者 足利義満』には、

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 幕府の実質はもう生まれていたが、この組織を何と呼ぶか定説はない。後に室町幕府が鎌倉に置いた自治政府を"鎌倉府"と呼ぶので、建武政権(後醍醐の政権)の中に創られたこの組織も"建武鎌倉府"と呼ぶのが無難だろう。なお、"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい。この組織のどこにも、「将軍」はいないのだから。成良親王は後に征夷大将軍になるが、それは約二年後に、京都に送り返された後である。
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との説明があり(p25以下)、今のところ桃崎氏独自の用語のようですね。
本当に「この組織のどこにも、「将軍」はいない」のであれば、確かに「無難」な表現ではあります。
ところで、桃崎氏は「北畠顕家の奥州府が得たような給恩・安堵権は認められなかった」と書かれていますが、これは通説、というか定説的理解ですね。
ただ、実はこの点については微妙な文書が一点あります。
それは森茂暁氏が、

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御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある。建武元年四月一〇日付、三浦介時継法師(法名道海)に勲功賞として武蔵国大谷郷・相模国河内郷を宛行〔あてが〕うという内容のものがそれで、書き止めは「依仰下知如件」となっている(『葦名古文書』)。まさにかつての関東下知状さながらである。署判は「左馬頭」(花押)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a

と書かれている建武元年四月一〇日付下知状です。
この問題については、後で亀田俊和氏の『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)に即して検討する予定です。
さて、「建武政権論」の続きです。(p65)

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 対話重視や所領没収刑など、後に直義が主導した室町幕府法廷の特徴的要素や諸機関は、建武鎌倉府にすでに出揃っている(没収刑では没収量も同じ)。引付・内談などの裁判機構を率い所領紛争の解決に熱心に取り組む直義の姿は、鎌倉幕府の理想的執権北条泰時や後の初期室町幕府執権(武家探題)直義と全く相似し、建武鎌倉府でも執権と称するに相応しい(公卿でない直義の発令が「御教書」と呼ばれ、複数の史料が直義を成良親王の「執権」と記すのがその証左である)。鎌倉府の諸機関や統括者が形式上成良親王庁の部局・職員として位置づけられる中で、直義の執権職も親王庁政所に属した可能性が高い(本来、「執権」とは複数の政所別当の中の実務統括者を指す)。鎌倉府に設置された小侍所・政所・関東廂番・大御厩なども全て鎌倉幕府の踏襲であった。特に廂番は鎌倉六代将軍宗尊親王が執心した精選の御家人近習番を模したもの、また大御厩もかつて頼朝や宗尊が征夷大将軍宣下に伴って設置した庁舎であった。鎌倉府はまた関東御公事(御家人役)の二本柱、即ち鎌倉大番役(御所警固)と垸飯役(垸飯儀式費用の賦課)をも踏襲しており、直義が後醍醐の意図を超えて建武政権内に幕府の再生を目論んだことは明らかである。
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「大御厩もかつて頼朝や宗尊が征夷大将軍宣下に伴って設置した庁舎であった」の「征夷大将軍宣下に伴って」には傍点が振ってあります。
桃崎氏は「直義が後醍醐の意図を超えて建武政権内に幕府の再生を目論んだことは明らかである」と言われますが、「建武鎌倉府」以上に鎌倉幕府類似の機構が整備されていたことが解明されている陸奥将軍府(桃崎氏の用語では「奥州府」)は後醍醐に容認されていた訳で、その権限があくまで出先機関に止まるのであれば、ミニ鎌倉幕府的存在は別に後醍醐の意図に反する訳ではありません。
そして、仮に成良親王が征夷大将軍であったならば、直義が「執権」と呼ばれるのは当然であり、「小侍所・政所・関東廂番・大御厩」といった「鎌倉幕府の踏襲」である機関が設置されるのも当然であり、特に「かつて頼朝や宗尊が征夷大将軍宣下に伴って設置した」大御厩が設置されるのは至極当然です。
更に「関東御公事(御家人役)の二本柱、即ち鎌倉大番役(御所警固)と垸飯役(垸飯儀式費用の賦課)」を「踏襲」することも当然となりますね。
ただ、私のように成良親王が征夷大将軍であって、「建武鎌倉府」が文字通りの「鎌倉将軍府」であったと考えると、権限の強い陸奥将軍府(「奥州府」)に征夷大将軍が存在せず、権限の弱い「鎌倉将軍府」に征夷大将軍が存在するということが何ともバランスが悪いようにも感じられます。
この点も亀田俊和氏の『足利直義 下知、件のごとし』に即して、後で検討したいと思います。
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