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護良親王の征夷大将軍解任時期との関係

2020-12-03 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 3日(木)18時28分28秒

別に桃崎氏の見解の批判が目的ではないのですが、やはり桃崎氏のように佐藤進一説の枠組みの中にいる限り、いくら細部を工夫しても「鎌倉将軍府」の時代を正確に把握できないような感じがします。
さて、問題は成良親王が征夷大将軍に就任した時期ですが、これは前任者である護良親王の任期と重なることはあり得ない、という制約があります。
そこで、まず護良親王が征夷大将軍に就任した時期ですが、この点について亀田俊和氏は『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)において、

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 清忠から護良の返答を聞いた後醍醐は困り果てた。倒幕の最大の功労者である尊氏を討つなど、狂気の沙汰としか言いようがない。結局、後醍醐は尊氏討伐を中止するよう息子を諭し、征夷大将軍に任命することでなだめた。
 これでようやく護良も信貴山を下山し、帰京した。その時期は諸説あるが、六月中であったことは確実である。『大日本史料』は、一三日の出来事としている。このときの護良の軍勢は非常に華美で豪勢だったようで(『増鏡』)、幕府打倒直後の彼の権勢を物語っている。
 ちなみに、遅くとも五月一〇日から、護良は令旨で「将軍宮」と称している(案文、摂津勝尾寺文書)。この段階は六波羅探題が滅亡した直後であり、後醍醐もまだ伯耆にとどまっていた。つまり、護良は後醍醐に無断で将軍を自称しており、後醍醐の将軍任命は、その追認にすぎなかったわけである。
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とされています。(p59)
『増鏡』には、

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 十三日大塔の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪おほして、えもいはず清らなる男になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂といふもの奉りて、御馬にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士どもうち囲みて、御門の御供なりしにも、ほとばと劣るまじかめり。速やかに将軍の宣旨をかうぶり給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150918011331/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-ketumatu.htm

とあって、『増鏡』が六月十三日説の有力な典拠ですね。
次に護良がいつ解任されたかですが、これははっきりしていないものの、佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)には「すでに義良─顕家の赴任前(九月?)に征夷大将軍を解任され」(p45)とあり、就任僅か三ヶ月程度で解任されたことで学説は固まっています。
最新の研究はやはり亀田氏の前掲書で、

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 その後、時期は不明であるが、六月令とは別に、護良令旨を無効化する法令も出されたらしい(年月日欠高野山丹生社神主恒信申状、紀伊高野山『宝簡集』一九)。これと符号するかのように、七月以降は護良令旨の残存数が激減し、しかも、彼が知行国主を務めた和泉・紀伊両国に限定される。そして元弘三年一〇月三日、和泉国上下包近名に対する濫妨を禁じ、同国久米田寺に同名を安堵したものを最後に(和泉久米田寺文書)、護良令旨はついに消滅するのである。
 そして、八月二二日から九月二日の間に、護良は征夷大将軍を解任されたらしい。六月に任命されてから、わずか三ヶ月ほどしか経っていない。令旨の書止文言から「将軍宮」「将軍家」の言葉も消え、右に述べたとおり、令旨自体が消滅してしまう。そのなかで、兵部卿の地位は依然維持し、和泉・紀伊の知行国主も続けたようであるが、護良の勢威が急速に衰えたことは否めない。
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とのことですね。(p60以下)
実は後世の編纂物では護良の解任時期には極めて幅があって、例えば『続史愚抄』には建武元年(1334)十月二十二日、護良が後醍醐の命により逮捕・監禁されたのと同日に解任されたとあります。
古文書の分析を踏まえた現在の歴史学の検証結果とは実に一年以上の差がありますが、まあ、編纂物の信頼性はこの程度ですね。
従って、成良の征夷大将軍就任時期を探るためにも、編纂物は全部駄目で、結局は古文書に頼るしかないと思われますが、この点は次の投稿で論じます。
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