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四月初めの中間整理(その8)

2021-04-12 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月12日(月)11時06分33秒

既に「四月初め」ではなくなってしまいましたが、今さらタイトルを変更するのも面倒なので、このまま数回続けるつもりです。
歴史学と国文学を跨いであちこち手を広げて来たので、自分の頭を整理することが一番の目的ですが、リンクの都合も考えています。
今までも参照のために特定の投稿にリンクを張ることは頻繁に行ってきましたが、数が多い場合には手間ばかりかかって分かりにくいので、ひとまとまりの話題については今回の中間整理の投稿にリンクを張るようにしようと思っています。
さて、私はこの掲示板の主たる読者を歴史研究者と想定しているので、歌人としての尊氏を検討するに際して、国文学研究者には不要な基礎的事項も改めて確認しておきました。
その作業は主として井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)に依拠しています。
井上著を引用した最初の投稿が次のもので、タイトルを井上著のままにしておけばよかったのですが、妙に凝り過ぎてしまいました。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a

ついで井上著に後醍醐による珣子内親王の立后への言及があったので、この点についての歴史学の最近の進展について少し触れておきました。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41

この後、事実上の「その3」で恒良親王の立太子に触れて、事実上の「その4」からタイトルを変更しました。
そして「その5」に尊氏が登場します。

「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

ここで井上著の紹介を中断して、護良親王について少し論じました。
私は細川重男氏が史料的根拠なく「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」と主張されているのかなと思ったのですが、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)を見たところ、呉座氏も細川氏と同様の主張をされています。
そして、その根拠として、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたことを挙げられています。

「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158

そこで、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたか否かについて、森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」という論文に即して、少し検討してみました。
森氏の研究によれば、護良親王は六波羅潰滅の直後、元弘三年(1333)五月十日付の令旨で「将軍宮」を称しています。
森氏は護良帰京をめぐる『太平記』の「二者択一パターン」エピソードに縛られているので、これが「自称」だとされるのですが、『太平記』を全く無視して、森氏が綺麗に整理された護良親王令旨の一覧表をごく素直に眺めれば、護良は「父帝の暗黙の了解」ではなく、正式の了解を得て征夷大将軍に任官したと考える方が自然ではないか、と思われます。
幕府が相当危なくなっているぞ、と多くの人が不安に思っている時期に、後醍醐が守邦親王から征夷大将軍の地位を奪って護良親王に与えたとなると、鎌倉幕府はもはや支配の正統性を失った存在なのだ、というけっこう強力な政治的・軍事的なアピールになって、親幕府側の武士に一層の心理的圧力を加えることが可能になります。
私は護良親王が僅か数か月間で征夷大将軍を解任された後も後醍醐との関係が決裂しなかった理由について、二人にとって征夷大将軍など名誉職的な地位であったからと思っていましたが、しかし、より正確には、征夷大将軍は討幕活動の最中には極めて重要な政治的・軍事的な意味を持ったものの、天下「静謐」が達成された結果、その重要性が低下し、護良が後醍醐と合意のうえで征夷大将軍を辞職したのではないかと再考しました。

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03c87ed5d3659ae5cf21bff4531d6265
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d
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