学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その5)

2020-12-10 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月10日(木)18時21分41秒

護良親王に関する評伝としては新井孝重氏の『護良親王 武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ』(ミネルヴァ書房、2016)も出ていますね。

-------
護良親王(1308~1355)鎌倉時代後期の皇族
皇族武将護良親王は、南北朝動乱期に一代の軍事英雄として華々しく登場した。だが、護良の足跡には謎が多い。本書では内乱期中世を疾風のように生きぬいた護良のすべてを、大胆な史料の読み直しを通して明らかにする。
[ここがポイント]
◎ 父帝後醍醐との、および敵対する足利との関係を詳述する。
◎ 中世社会のありように目を配りつつ人物を描きだす。
[副題の由来]
後醍醐天皇の隠岐配流いらい、護良親王は天皇の代わりに前線に身をさらし、すべてを捧げ戦った。だが討幕の大目的をとげたあと、彼を待ち受けたのは父帝後醍醐からの冷遇であり、老獪無慈悲な政治的包囲・失脚であった。宿敵尊氏に負け鎌倉へ送られる護良の心は、父帝への恨みに彩られていた。「武家よりも君の恨めしく」という無念の心もようは痛々しい。(本書236頁参照)

https://www.minervashobo.co.jp/book/b241680.html

ミネルヴァの宣伝文、最初の一行で護良の没年を1355年としていますが、これは1335年の誤りですね。
実は私はまだ同書を読んでいないのですが、新井氏は村井章介編『日本の時代史10 南北朝の動乱』(吉川弘文館、2003)の「Ⅱ 悪党と宮たち 下剋上と権威憧憬」において次のように書かれているので(p140以下)、ミネルヴァの評伝でも建武新政期の護良については同趣旨の見解を述べられておられるのだろうなと推察します。

-------
護良親王の「武勇」

 大塔宮護良親王は元弘内乱の戦乱が収まっても、なお武備を蓄え武装を解かず、信貴山上に腰を据えて動かなかった。後醍醐天皇はただちに下山して法体にもどるようにと命じたが、護良はこれを受け入れず、俗体のまま足利尊氏を討伐しようとする構えを崩そうとはしなかった(このときの尊氏は高氏と書くのが正しいが、煩を避けて尊氏と一括表記する)。討幕戦の大きな功労者である護良と彼の周辺からは、この時代特有のギラギラした「武勇」の風がみなぎっていた。護良が尊氏に敵愾心を燃やしたのは、次のような事情があったからだといわれている。
 一三三三年(元弘三)五月後醍醐軍が六波羅探題を攻め落としたとき、護良の仲間の殿法印の手の者どもが洛中の土蔵を打ち破って財宝を略奪した。武士の統率権を握ろうとする足利尊氏はこの者どもを召し捕って、二十余人を六条河原で斬った。斬り懸けた首の脇の高札には、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、在々所々に於いて昼強盗を致す間、誅するところ也」と書いてあった(『太平記』巻一二)。仲間の手下どもとはいえ、首を取られた上に、自分の名前が掲げられていたのでは、護良にとって心穏やかではない。見過ごすことのできない恥辱であった。それからというもの、かれは鬱憤と仕返しの執念に身を焦がしたのである。
-------

いったん、ここで切ります。
『太平記』の引用文中に「昼強盗」とあるので、新井氏が見ておられるのは流布本のようですね。
恐らく岩波の古典大系か、あるいは岡見正雄校注の角川文庫版ではないかと思います。
そして、「後醍醐天皇はただちに下山して法体にもどるようにと命じたが、護良はこれを受け入れず、俗体のまま足利尊氏を討伐しようとする構えを崩そうとはしなかった」の出典は『太平記』ですね。
また、殿法印の「昼強盗」の話も出典は『太平記』です。
私が不思議に思うのは、新井氏は強盗だけでなく、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、在々所々に於いて昼強盗を致す間、誅するところ也」という高札を掲げた点も事実とされる点です。
自分の名前が強盗犯人の高札に掲げられた場合、護良は「心穏やかではない」で済ませられるのか。
「見過ごすことのできない恥辱」ならば、見過ごさずに、自分の軍勢を率いて自分の名前を辱めた尊氏の配下を斬り捨てればよいではないか、仮にそれで尊氏と全面戦争になろうと仕方ないではないか、と私は思いますが、新井氏はなぜ護良が直ちに報復に出ず、ネチネチと「鬱憤と仕返しの執念に身を焦がした」りすると思われるのでしょうか。

-------
 中世の人間は自分の名誉について敏感で、これが傷つけられた場合には、激しい敵意と闘争心を抱いた。護良親王が尊氏に対して敵意をもったのは、尊氏の野心を察知したからといわれているが、最初のきっかけは案外に護良の受けた恥辱にあったのではないか。物騒な武装デモンストレーションで力を誇示する護良は、京都に入っても武器を手放そうとはせず、かえって強弓・長刀の使い手を集めておのれの軍事力を強めた。宮のまわりに集まったならず者は、夜毎に京白河を徘徊して辻斬りを重ねたという。京都の治安回復の主導権を握っていたのは尊氏である。彼は京都の治安を担当することによって政治的な影響力を強めようとしていたから、宮はその治安を攪乱して尊氏に鞘当てをしたのである。
-------

「護良親王が尊氏に対して敵意をもったのは、尊氏の野心を察知したからといわれているが」の出典は『太平記』ですね。
「強弓・長刀の使い手を集めておのれの軍事力を強めた」の出典は『太平記』であり、「宮のまわりに集まったならず者は、夜毎に京白河を徘徊して辻斬りを重ねたという」も同様です。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37968ec2d22b9aaae94c672afd446770

-------
 結局、護良親王は尊氏との争いに負けて、後醍醐天皇の政治取引の犠牲となるのだが、かれの行動にみられる強烈な秩序破壊と悪党的な武勇は、この時期の社会の心性を、奥深いところから、よくのぞかせていた。宮方の人物である文観にも千種忠顕にも、おなじような武勇はみられ、護良や護良的な群像はこの時代を探る上ですこぶる興味深い。
-------

「この時期の社会の心性を、奥深いところから、よくのぞかせていた」云々は網野チックな表現ですね。
ま、ここまで『太平記』べったりで史料批判の姿勢に乏しい「論文」も珍しいように感じます。
「論文」というより、『太平記』に学問的粉飾を凝らした「小説」ではないですかね。
さて、私の関心は護良の「武勇」ではなく、護良が後醍醐に対し、本当に征夷大将軍任官を強く要求したのか、という点ですが、ミネルヴァの評伝の目次を見ると、

-------
第六章 征夷大将軍
 1 護良の新たな戦い
 2 武家の軍事制度を引き継ぐ
 3 三つ巴の暗闘――後醍醐・護良・尊氏
------

となっているので、内容の予測はつきますから、わざわざ確認する必要もないかなと思っています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 征夷大将軍という存在の耐え... | トップ | 「征夷大将軍」はいつ重くな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

征夷大将軍はいつ重くなったのか」カテゴリの最新記事