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「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)

2020-11-30 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月30日(月)08時17分22秒

成良親王は征夷大将軍に就いたのか、就いたとしてその時期はいつか、という問題から次の課題、即ち、中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍を望んだのか、という問題に移ると書いたばかりですが、やはり成良親王についてもう少し論じたいと思います。
前者を解明すれば後者も自ずから解答を得られるからです。
さて、北畠親房の『神皇正統記』は元弘三年(1333)の出来事として、

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同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。【中略】同十二月左馬直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野太守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給(直義は高氏が弟なり)。
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と記し(岩佐正校注『神皇正統記』、岩波文庫、p171以下)、成良親王が征夷大将軍となった時期は明確にしないものの、その就任自体は肯定しています。
また、『梅松論』は、成良は鎌倉下向の時点で「征夷将軍」だとしています。
『太平記』より信頼性の高い両書が、時期はともかくとして、ともに成良の征夷大将軍就任を肯定している以上、就任自体は正しいものと考えてよいと思いますが、問題はその時期です。
この点、『相顕抄』に基づく建武二年(1335)八月一日説と『続史愚抄』に基づく建武元年(1334)十一月十四日説は、両書とも近世の編纂物であることから信頼性は乏しいと言わざるを得ません。
しかし、征夷大将軍就任が事実であれば、それは一次史料の古文書に反映されるはずです。
そこで、成良親王の下で直義が発給した文書から、その征夷大将軍就任時期を推定できないかを検討したいと思います。
といっても私は古文書の世界は全くの素人なので、最初に森茂暁氏の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)から、いわゆる「鎌倉将軍府」期の直義発給文書の概要を把握したいと思います。
実は、この問題の解明に最も役に立つのは桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)という論文なのですが、同論文は若干難しいため、まずは森茂暁氏の見解、そして森氏の桃崎論文への評価を紹介しておきたいと思います。
森氏は「第一章 直義登場」の第二節「建武政権と足利直義」において、建武政権で「尊氏・直義兄弟は破格の厚遇をうけた」として、その官位昇進の様子を説明した後、次のように述べます。(p34以下)

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 この間の元弘三年十二月十四日、直義は新設の鎌倉将軍府の主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で(その地位は室町期成立とされる「鎌倉大日記」<増補続史料大成51>では「執権」)、足利系の武将と軍勢を率いて鎌倉に下っている。鎌倉将軍府とは、鎌倉幕府の故地たる相模国の鎌倉に置かれた、関東地方統治のための建武政権の出先機関である。管轄する地域は「関東十か国」、つまり坂東八か国(相模・武蔵・下総・安房・常陸・上野・下野)と甲斐・伊豆である(「建武記」。元弘四年<建武元>正月)。
 鎌倉将軍府という言い方は当時の史料に登場する名辞ではないが、今日便宜的にこう呼んでいる。それは制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身ということになる。
 京都の建武政権が遠隔地たる関東地方を統治するにはこの地域に名声の高い足利氏の力を借りねばならなかったものと察せられる。足利尊氏の弟直義が成良親王を奉じて関東地方の中心都市鎌倉へ下向する様子、および鎌倉将軍府における執権直義の役割の重さについては、同時代史料たる『梅松論』が以下のように簡潔に描写している。

  大将軍〔足利尊氏〕の叡慮無双にして御昇進は申に不及、武蔵・相模、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿
  の例に任て御受領あり。次に関東へは同年〔元弘三〕の冬、成良親王征夷将軍として御下向なり。下
  の御所左馬頭殿〔足利直義〕供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の
  乱に地を払いしかども太守〔足利直義〕御座ありければ、庶民安堵の思ひをなしけり。

 近年桃崎有一郎は、鎌倉将軍府の構成や組織を検討して、その直義の流儀と支配権行使は鎌倉幕府の踏襲であるとし、直義は「後醍醐の意図を超えて建武政権内に幕府の再生を目論んだことは明らかである」と述べている(「建武政権論」『岩波講座日本歴史7』二〇一四年、六五頁)。
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いったん、ここで切ります。
森氏は「鎌倉将軍府」が「制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身ということになる」とされますが、桃崎氏の「鎌倉将軍府の構成や組織を検討して、その直義の流儀と支配権行使は鎌倉幕府の踏襲」という理解が正しいのであれば、むしろ「鎌倉将軍府」は「制度的にみると」鎌倉幕府の後身ではないかと思われます。
こう考えると、あまり信頼性が高いようにも思えなかった『相顕抄』「鎌倉将軍次第」の「頼朝卿・頼家卿・実朝公・二位家・頼経卿・頼嗣卿・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王・成良親王・義良親王」というリストも、それなりに一貫した歴史観の反映のようにも思えてきます。
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