学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)

2020-12-05 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 5日(土)10時36分25秒

それでは亀田俊和氏の『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)を見て行きます。
同書の「第二章 元弘と建武の戦い」「1 建武政権下の足利直義」から引用します。(p18)

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鎌倉将軍府

 しかし何よりも看過してならないのは、鎌倉将軍府の存在であろう。鎌倉将軍府とは、後醍醐天皇皇子成良親王を首長とする建武政権の関東地方統治機関に、現代の歴史家が便宜上与えた名称である。成良が幼少であったため、直義が「執権」(『太平記』巻第一三)として彼を支え、事実上の将軍府のリーダーとなったのである。
 直義が成良を奉じて鎌倉に入ったのは、元弘三年一二月二九日である(『相顕抄』)。将軍府の管轄地域は、関東一〇ヵ国(坂東八ヵ国(相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野)+伊豆・甲斐)であった。これに前述の駿河・遠江および鎌倉以来の足利分国三河も併せると、足利氏は関東地方と東海道を連結させて広大な版図を築き上げたことになる。
 鎌倉将軍府は、政所・小侍所・関東廂番・大御厩などの機関を備えていたが、これらはすべて前代鎌倉幕府の統治機構を踏襲したものである。さらに、これまた鎌倉以来の所務沙汰機関である庭中や引付も設置し、訴訟を行った(建武二年(一三三五)四月一九日付光信請取状案二通、神奈川県立金沢文庫保管称名寺文書)。また、後年の観応の擾乱で直義派として戦った長井広秀や二階堂行諲(時綱)が政所執事を務めたのも興味深い。
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いったん、ここで切ります。
『太平記』で直義が「執権」として登場する場面を確認すると、西源院本では第十三巻第四節「中先代の事」の冒頭に、

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 今、天下一統に帰して、寰中〔かんちゅう〕無事なりと云へども、朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪〔あ〕しかりぬべしとて、当今〔とうぎん〕第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a3d642e86c00b75693207c4ccd6d3a8

とあります。(兵藤校注『太平記(二)』、p321)
岡見正雄校注『太平記(二)』(角川文庫、1982)を見たところ、流布本でもほぼ同文ですね。
なお、前回投稿では成良親王が征夷大将軍になった時期について、諸史料を三つの類型に分類してみましたが、『太平記』も鎌倉下向当初から成良を「征夷将軍」としており、第一類型ですね。
前回投稿も修正しておきました。
さて、続きです。

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 発給文書は、鎌倉寺院の諸職を御判御教書様式で補任・安堵したものが目立つ(建武元年一二月二六日付直義御判御教書、相模明王院所蔵法華堂文書など)。こうした文書は、「安堵御下文」と称された(内閣文庫所蔵『鎌倉証菩提寺年中行事』)。また成良親王の命を受けて下知状様式で発給した、三浦時継に武蔵国大谷郷・相模国河内郷地頭職を勲功賞として充行った文書も興味深い(同年四月一〇日付直義下知状、小田部庄左衛門氏所蔵宇都宮文書乾)。
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前回投稿では、この建武元年四月一〇日付下知状について、亀田氏も意味深長な言及の仕方をされている、などと書きましたが、亀田氏は「興味深い」と言われているだけです。
ただ、この少し後で、鎌倉将軍府は権限が弱く、原則として恩賞充行や所領安堵をすることができなかったが、「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(p20)との指摘もあります。
森茂暁氏が「まさにかつての関東下知状さながらである」と評価され、亀田氏が「興味深い」とされるこの文書が具体的にどのようなものかというと、これは『南北朝遺文 関東編第一巻』(東京堂出版、2007)の七七番ですね。

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〇七七 足利直義下知状 <〇小田部庄左衛門氏所蔵宇都宮文書乾>

 可令早三浦介時継法師<法名道海>領知武蔵国大谷郷<下野右近大夫将監跡>・
 相模国河内郷<渋谷遠江権守跡>地頭職事
右、為勲功賞所充行也者、早守先例、可令領掌之状、依仰下
知如件、
  建武元年四月十日
                左馬頭源朝臣(花押)
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私は古文書学については全くの素人なので、何故に森氏と亀田氏がこの文書に注目されるのかも、正直なところ良く分かりませんでした。
しかし、この時期の古文書の全てを把握している両氏が何故にこの文書を特別視されるのかというと、それは「かつての関東下知状さながら」のこの直義下知状が、成良親王の位置づけに関する通説的理解にそぐわないからではないか、つまり、この文書は「仰」の主体である成良親王が征夷大将軍であることを前提としているようにも読めるのではないか、と考えました。
ま、素人がいくら考えても仕方ないので、この考え方に無理があるかどうかをツイッターで相互フォローしている亀田氏に質問したところ、「いえ、有力だと思います」とのお返事でした。
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