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「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)

2020-12-03 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
「建武政権論」の続きです。(p65以下)

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 鎌倉の大慈寺新釈迦堂・山内新阿弥陀堂の供僧職や右大将〔源頼朝〕家法華堂禅衆職、金沢称名寺・浄光明寺の住持職はかつて執権の発する関東御教書で任命されたが、直義はこの権限を全く継承した。鎌倉府の供僧職安堵は、申請書や証拠文書・系図・起請文などを奉行人に提出すると、鎌倉府主君成良の御所で「御下文」を下される形でなされ、幕府的な御恩・奉公関係を強く含意した。また建長寺正続院に「毎月斎料一石一貫」を下行(支払い)した「公文所」は、後に下行米・銭の代替財源として同院に寄進された相模国山内荘秋庭郷信濃村が直義領なので、直義家の家務機関と見なされる。鎌倉末期には得宗家の公文所が得宗領の関東御願所に所務関係の命令を発したから、直義は得宗に准じて家務機関を設置したことになる。
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鎌倉期の足利氏の家政機関に関する先行研究によれば、政所の下部組織として「足利荘公文所」「額田郡公文所」などが置かれていたはずですが、桃崎氏の理解だと「直義家の家務機関」として「公文所」が存在するとのことなので、これは「尊氏家の家務機関」とは別個独立に「直義家の家務機関」が存在していたということなのでしょうか。
ちょっと理解できないので、後で調べてみるつもりです。
ま、それはともかく、寺院関係の諸職が「かつて執権の発する関東御教書で任命されたが、直義はこの権限を全く継承」し、「鎌倉府の供僧職安堵」も「鎌倉府主君成良の御所で「御下文」を下される形でなされ、幕府的な御恩・奉公関係を強く含意した」とのことなので、ここでも限りなく鎌倉幕府に近い何らかの組織が存在していたようですね。
そして、当該組織のトップに位置していた成良の役職名ははっきりせず、史料用語としても講学上の分析概念としてもあまり聞いたことのない「鎌倉府主君」という曖昧な表現を使わざるを得ないようなので、これも森茂暁氏の「主帥」概念と似ていますね。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a

さて、続きです。

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 他方尊氏は、鎌倉中期に祖先足利義氏が足利荘の一部を寄進して成立した鶴岡八幡宮両界供僧職などを足利家家督として安堵する一方、かつての執権・得宗と同形式の任命書(公帖)で京都万寿寺や肥後寿勝寺の住持を任命した。政治的経緯のみに基づく得宗の権力は将軍・執権のいずれに回収するか判断が難しかったが、得宗の家格と家政を直義が継承する一方、臨済宗諸寺の寺格設定を行う権力者としての人格は尊氏が継承したと思われる。総じて足利氏による寺社諸職・所領の補任・安堵においては、足利氏家督の尊氏と鎌倉府執権の直義という両系統が並立しており、初期室町幕府において尊氏が主従制的な支配権を、直義が統治権的な支配権を分掌したという著名な二元的構造が、すでに明瞭に現れている。
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「政治的経緯のみに基づく得宗の権力は将軍・執権のいずれに回収するか判断が難しかったが」とありますが、ここで言う「将軍」は尊氏のようですね。
まあ、確かにこの時期の尊氏は「鎮守府将軍」という称号を得てはいますが、「鎮守府将軍」としての尊氏の権力とは何なのでしょうか。
また、「得宗の権力」を尊氏・直義兄弟が「回収」できる根拠は何かあるのでしょうか。
北条一門の上に君臨した得宗は、実質的に鎌倉幕府全体を支配し、かつ朝廷にも干渉できる強大な権力を有していた訳ですが、建武の新政で「公武一統」の世になった以上、「得宗の権力」を総体的に獲得できたのは後醍醐ではなかろうかと思います。
尊氏も直義も、後醍醐から僅かな権力を分配してもらえただけで、二人の権力は合算しても得宗より遥かにショボい権力なのではないですかね。
正直、私には「得宗の家格と家政を直義が継承」などという事態は想像もできませんが、桃崎氏の理解によれば、「得宗の家格と家政」を「鎌倉府執権の直義」が継承し、それが初期室町幕府の「統治権的な支配権」と結びつき、他方、「臨済宗諸寺の寺格設定を行う権力者としての人格」を「足利氏家督の尊氏」が継承し、それが初期室町幕府の「主従制的な支配権」と結びつくようですね。
まあ、私には全く異なるレベルの問題がごちゃ混ぜになっているようで全く理解できませんが、とにかく桃崎氏が佐藤進一の「著名な二元的構造」説の影響を極めて強く受けているらしいことは確認できました。
「2 鎌倉府執権足利直義」はこれで終わりです。
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