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流布本も読んでみる。(その13)─「一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」

2023-04-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本の政子の演説の内容を整理すると、

(1)日本国において幸運な女房の代表例として私の名前が挙げられているが、私ほど心痛の多かった者はいない。
(2)「故殿」(頼朝)に逢い初めた頃は、常識はずれの振舞いをする女だとして親にも邪見にされた。
(3)平家との戦が始まってからは、不安の中、精進潔斎して仏神に祈る日々が六年も続いた。
(4)平家が滅んで世の中が豊かになると思ったのに、ほどなく娘の大姫が亡くなってしまい、自分も死のうと思ったが、「故殿」に慰められた。
(5)ところが、「故殿」にも続けて先立たれてしまい、この時こそもう限界だ、私も死のうと思ったが、「左衛門督殿」(頼家)はまだ若く、父・頼朝に先立たれてどうしたらよいだろうと不安なのに、一度に二人に亡くなられては大変なことです、としきりに訴えるので、確かに頼家を見捨てる訳にはいかないと思い直した。
(6)するとまた、「守殿」頼家も亡くなってしまったので、誰も頼みにすることができなくなってしまい、思い沈んだけれども、「故左大臣殿」(実朝)が、今では頼りにする人が誰もおらず、孤児のようになってしまった私をどうして捨てるのですか、私だって兄・頼家と同じくあなたの子なのに、と嘆くので、確かに痛ましいことと思って空しい日々を暮らしていた。
(7)すると今度は「大臣殿」(実朝)も亡くなってしまったので、さすがにこれを限りに死のう、このようなつらい身の報いのために嘆きばかりが重なるのは耐えられない、どこの渕・河でもよいから身を投げて死のうと思い立ったところに、「権大夫」(義時)が、「あなたが亡くなってしまったら鎌倉は鹿の住処となり果てて、滅びてしまいます。三代将軍の後生は誰が弔うのですか。本当に死のうと御決意なさっていらっしゃるのならば、先ずは義時が御前で自害し、お供つかまつります」と言って、夜も昼も立ち去らず、様々に嘆くので、確かに将軍の後生を弔うのは私以外にいないと思って、今日まで厚かましくも生きながらえてきましたが、それなのに今になってこんな事を聞くのは悲しい。
(8)「日本国の侍」たちよ、昔は大番が三年あって、大番は生涯の重大事であり、郎従・眷属に至るまで、これを名誉として祝ってくれるので勇んで上京しても、三年は余りに長く、力尽きて下るときは、すっかり貧しくなり、蓑笠を首にかけ、裸足のまま歩くような有様であったのを、「故殿」は哀れんで三年を六月に縮めて御家人の負担を軽減せられ、みんなが助かるようにお計らい下さったではないか。これほどお情け深くていらっしゃった「故殿」の御志を忘れて、京方へ参ろうとするか、御方に留まって御奉公をするか、只今、確かに決断せよ。

となりますが、(4)から(7)までは、

誰か死ぬ → 政子、自殺を決意 → 別の誰かに死なないでと頼まれて撤回

という単調なパターンが繰り返されます。
まあ、確かに政子の人生は大姫・頼朝・頼家・実朝が次々と死んで、なかなか大変だったとは思いますが、そんなことを今さら御家人に言っても、聞く方としては、そうですか、大変でしたね、と思うしかありません。
そして、(1)から(7)まで、演説全体の分量の八割ほどダラダラと愚痴が続いた後、突如として(8)で「故殿」の恩が語られ、その恩に背いて「京方」に参るか、「御方」(幕府側)に付くかを今、直ちに決断せよ、と命令するのはいかにも唐突です。
また、「故殿」頼朝の功績として挙げられるのが三年の大番役を半年に縮めただけ、というのも何だか変な感じがします。
地方の武士にとって、大番役は京都に行って見聞を広め、知友を得る絶好の機会であって、負担だけでなく利益が相当にあります。
そして、そもそも大番役は古代の防人のように普通の農民が労役と出費を強制される制度ではなく、大番役に選ばれるのは地元で自他ともに有力な一族と認める、それなりに経済的に豊かな武士だけであって、三年経ったら極貧の身になるはずもありません。
ここは流布本には珍しく、何ともヘンテコな場面ですね。
ま、それはともかく、続きです。(p74以下)

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 明る廿日の早天に、権大夫の許〔もと〕へ、又大名・小名聚〔あつま〕りて、軍の僉議評定有けるに、武蔵守被申けるは、「是程の御大事、無勢にては如何が有べからん。両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」と被申ければ、権大夫、大に瞋〔いか〕りて、「不思議の男の申様哉。義時は、君の御為に忠耳〔のみ〕有て不義なし。人の讒言に依て、朝敵の由を被仰下上は、百千万騎の勢を相具たり共、天命に背奉る程にては、君に勝進〔まゐ〕らすべきか。只果報に任〔まか〕するにて社〔こそ〕あれ。一天の君を敵に請〔うけ〕進らせて、時日を可移にや。早〔はや〕上れ、疾〔とく〕打立」と宣ければ、其上は兎角〔とかく〕申に不及、各〔おのおの〕宿所々々に立帰り、終夜〔よもすがら〕用意して、明る五月廿一日に、由井の浜に有ける藤沢左衛門尉清親が許へ門出して、同廿二日にぞ被立ける。
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『吾妻鏡』では義時は相当に逡巡していますが、ここでは全く迷いのない、断固たる指導者ですね。
検討は次の投稿で行います。

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