学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その15)

2023-01-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

承久の乱の勃発を知らせる京都からの使者について整理すると、

(1)流布本『承久記』……「院宣の御師」「推松」、「平九郎判官」の「私の使」の二人
(2)慈光寺本『承久記』……「伊賀判官下人」、「院御下部押松」、「平判官ノ下人」の三人
(3)『吾妻鏡』……「大夫尉光季」の「飛脚」、「右大將家司主税頭長衡」の「飛脚」、「関東分宣旨御使」の
                      「押松丸<秀康所従云々>」、「廷尉胤義<義村弟>」の「私書状」持参者の四人

です。
『吾妻鏡』承久三年五月十九日条を見ると、京都守護・伊賀光季の使者は光季が現実に討たれる前に出発しているので、その報告は後鳥羽院が「官軍」を集めており、もう一人の京都守護「前民部少輔親広入道」も「勅喚」に応じたが、「右幕下」西園寺公経からの警告を受けていた光季は応じないので「勅勘」を蒙る可能性が高い、というものです。
そして、西園寺公経の家司・三善長衡の使者は、十四日に公経と実氏父子が二位法印尊長によって「弓塲殿」に監禁されたこと、十五日に伊賀光季が「官軍」に誅殺されたこと、そして「按察使光親卿」が奉じた「右京兆 追討の宣旨」が「五畿七道」に下され、「関東分宣旨御使」が今日到着しているはずであることを報告します。
この西園寺家の使者の報告を受けて、幕府が「関東分宣旨御使」を捜索したところ、葛西谷 の「山里殿」の辺りで発見し、その使者は「押松丸」と称し、藤原秀康の所従であることが判明します。
「押松丸」は「宣旨」・「大監物光行副状」・「東士交名註進状」を持参しており、政子邸でその内容が確認されます。
他方、同日に「廷尉胤義」の使者も「駿河前司義村」を訪れ、「応勅定可誅右京兆。於勲功賞者可依請之由。被仰下之趣」を書いた「私書状」を義村に渡しますが、義村は使者を追い返し、その「私書状」を持参して、「右京兆」北条義時邸に行き、義時に忠誠を誓います。
そして、陰陽師による「卜筮」の後、北条時房・泰時・大江広元・足利義氏以下の御家人が政子邸に「群集」し、政子は簾越しに、安達景盛を通して自分の所信を伝えます。

参考:『吾妻鏡』承久三年五月(歴散加藤塾サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

『吾妻鏡』の説明は四人の使者の動向を、相互に矛盾なく、時系列で巧みに整理しているように思われますが、これと比較すると、慈光寺本は西園寺家の使者の存在を無視しており、その役割を伊賀光季の使者に代替させているようです。
流布本は更にシンプルで、西園寺家の使者ばかりか伊賀光季の使者も登場せず、三浦胤義の兄・義村に対する「私の使」が「院宣の御師」「推松」の存在を伝えたので、義村経由でそれを知った北条義時が「推松」の行方を捜したところ、「笠井の谷」で発見し、「院宣」を奪い取った、という展開です。
まあ、一番信頼できそうなのは『吾妻鏡』ですが、流布本と慈光寺本の関係はどう考えるべきか。
杉山説に従えば、流布本の作者は慈光寺本に存在していた伊賀光季の使者のエピソードをわざわざ削ぎ落し、三浦胤義の使者と「推松」だけのシンプルな構図に「造型」したことになりますが、その意図は何だったのか。
私としては、流布本のあまりにシンプルすぎる構図に不満を持った慈光寺本の作者が伊賀光季の使者を登場させた、と考える方が自然ではないかと思います。
さて、慈光寺本には、「鬼王〔きわう〕ノ如ナル使六人ヲ、六手ニ分テ尋ラル。壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出シテ、天ニモ付ズ地ニモ付ズ、閻魔王ノ使ノ如シテ参リタリ」(岩波新日本古典文学大系、p327)などという描写がありますが、「推松、人の気色替り、何となく騒ぎければ、有者の許に隠れ居たりけるを、一々に鎌倉中を捜しければ、笠井の谷より尋出し、引張先に立てぞ参ける」(松林靖明校注『新訂承久記』、p72)という流布本のあっさりした記述と比べると妙に大袈裟で、いささかコミカルな感じもします。
また、慈光寺本では、「義時ガ頸ヲバ、殿原ノ斬〔きる〕ベキナラバ、只今打〔うつ〕テ都ヘ上セテ、十善〔じふぜん〕ノ君ノ御見参〔げんざん〕ニ入サセ玉ヘ」と言う義時に対し、「七条次郎兵衛」という出自不明の人物が、「大夫殿、聞食〔きこしめ〕セ。昔ヨリシテ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデハ守ラント約束申シテ候ヘバ、大夫殿コソ大臣殿ヨ。大臣殿コソ大夫殿ヨ」などとわざとらしいおべんちゃらを言いますが、この「四十八人ノ大名・高家」は、少し前の武田六郎信光の発言(p326)にも出て来た、「具体的にどのような武将が数えられるか未詳」の慈光寺本の独自表現ですね。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a35b665e1e27bd981fc169c4fa7ffb

「七条次郎兵衛」は、このおべんちゃらに続けて「ソレハ、今日ヨリ後ハ、四十八人ノ大名・高家、皆其儀ナラバ、宣旨ノ御請〔おんうけ〕イカゞ可有〔あるべき〕。各計〔おのおのはかり〕給ヘ」と言い(p328)、ここから「軍ノ僉議」ではなく、押松が持参した「宣旨」(院宣)への返事をどうすべきか、という細かな話になってしまいます。
そして、「駿河国淡河中務兼定」なる、これまた誰か良く分からない人物が、「十善ノ君、是ヤ此数〔このかず〕賦物〔くばりもの〕、一年ニ二度三度、献上面目〔めんぼく〕候覧〔らん〕。此上〔このうへ〕何ノ御不足アリテカ、加様ノ宣旨ハ下サレ候覧〔らん〕。二位ノ尼、遁世深山〔しんざんにとんせい〕ニテ流涙〔ながすなみだ〕不便〔ふびん〕ニ候間、依武士召候〔ぶしのめしさうらふによりて〕、山道〔さんだう〕・海道〔かいだう〕・北陸道〔ほくろくだう〕、自三ノ路大勢差進上〔さしまゐらせのぼせ〕候也。被召合西国武士〔さいこくぶしらをめしあはせられ〕、合戦ノ様、自御簾ノ隙〔みすのひまより〕可有叡覧〔えいらんあるべし〕」という文案を提案し、「武田六郎」が「神妙〔しんべう〕也」と評価して、北条義時も了解するという展開となりますが、この文案に沿った「勅答」が後に再び登場します。

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