続きです。(岩波新大系、p327)
この辺りは既に今年の一月、杉山次子説を検討する際に引用していますが、参照の便宜のために再掲します。
慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0186940e6e194975a4eb3f9715f7b5ce
-------
駿河守ハ文巻持〔まきもち〕テ、大夫殿ヘ参リ、申サレケルハ、「平判官胤義ガ、今年三年京住〔きやうずみ〕シテ下〔くだし〕タル状、御覧ゼヨ。一年〔ひととせ〕、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒〔ちうばい〕シタリトテ、余所〔よそ〕ノ誹謗ハ有シカドモ、若〔わかく〕ヨリ「互ニ変改〔へんがい〕アラジ」ト約束申テ候ヘバ、角〔かく〕モ申候ナリ。院下部押松、和殿討ンズル宣旨ヲ持テ下リケルガ、鎌倉入ニ放〔はなれ〕テ候ト申ツルゾ、此〔ここ〕ヨリ奥ノ大名・高家ハ、披露有ツル者ナラバ、和殿ト義村トヲ敵ト思ハヌ者ハヨモアラジ。奥ノ人共〔ひとども〕ニ披露セヌ先ニ、鎌倉中ニテ押松尋テ御覧ゼヨ、大夫殿」トゾ申サレケル。「可然〔しかるべし〕」トテ、鬼王〔きわう〕ノ如ナル使六人ヲ、六手ニ分テ尋ラル。壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出シテ、天ニモ付ズ地ニモ付ズ、閻魔王ノ使ノ如シテ参リタリ。
-------
いったん、ここで切ります。
「此ヨリ奥ノ」云々が少し分かりにくい感じがしますが、久保田淳氏は「鎌倉以東の」とされています。
鎌倉以東の有力武士に「院下部押松」の「和殿討ンズル宣旨」が「披露」されたならば、何故に「和殿ト義村トヲ敵ト思ハヌ者ハヨモアラジ」なのか。
その理由は分かりにくいですが、慈光寺本作者によって創作された義村は、そのような認識をしている訳ですね。
また、先に胤義の使者に対して、義村は「一年〔ひととせ〕、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝サリタリ」と言っていましたが、ここで再び、北条義時に対する口上でも「和田左衛門ガ謀反ノ時」云々の話が出てきます。
この場面、流布本では北条義時が堂々たる指導者であるのに対し、三浦義村は義時に対して卑屈な態度を取っていましたが、慈光寺本では、義村は義時と対等のような振る舞いです。
和田義盛の乱に言及するのも、「余所ノ誹謗」にも拘わらず自分と義時との信頼関係が強固であることを示すためであり、義村は早く「押松」を探し出さないと大変なことになるぞと義時に助言し、義時はその助言に従って「鬼王ノ如ナル使六人ヲ、六手ニ分テ」派遣し、「壱岐ノ入道」葛西清重の宿所で発見された「押松」は、「天ニモ付ズ地ニモ付ズ、閻魔王ノ使ノ如シテ」連行されます。
このあたりの描写はちょっと大袈裟、というか劇画的な感じがします。
さて、続きです。(p327以下)
-------
大夫殿ハ、押松ガ持タル宣名奪取〔うばひとり〕テ披見〔ひけん〕シ玉フ。此等ノ次第伝聞〔つたへきき〕テ、馬ニ鞍ヲキ、キセナガ持〔もた〕セテ、権大夫殿ヘ馳参〔はせまゐ〕ル人々ハ数ヲ不知〔しらず〕。権大夫殿申サレケルハ、「義時ガ頸ヲバ、殿原ノ斬〔きる〕ベキナラバ、只今打〔うつ〕テ都ヘ上セテ、十善〔じふぜん〕ノ君ノ御見参〔げんざん〕ニ入サセ玉ヘ」。七条次郎兵衛、取〔とり〕アヘズ申ケルハ、「大夫殿、聞食〔きこしめ〕セ。昔ヨリシテ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデハ守ラント約束申シテ候ヘバ、大夫殿コソ大臣殿ヨ。大臣殿コソ大夫殿ヨ」。「ソレハ、今日ヨリ後ハ、四十八人ノ大名・高家、皆其儀ナラバ、宣旨ノ御請〔おんうけ〕イカゞ可有〔あるべき〕。各計〔おのおのはかり〕給ヘ」ト申サレケリ。面々並居〔ならびゐ〕テ、計出〔はかりいだ〕シタル事ゾナキ。
-------
「押松ガ持タル宣名」は「宣命」のことでしょうが、「按察使中納言光親卿」が「書下サレケル」文書は「院宣」だったはずです。
そして、少し前に「和殿討ンズル宣旨」という表現があったにもかかわらず、ここでは「宣名(命)」となっており、「院宣」「宣旨」「宣命」という具合いに慈光寺本の表記は無茶苦茶ですね。
この表記の混乱は、慈光寺本作者が文書の様式にさほど興味も知識も有していないことを示しています。
そこで、その作者が「転載」する義時追討の「院宣」について、厳密な古文書学的検討をすること自体が本当に正しい学問的態度なのか、という疑問も生じてきます。
長村祥知氏は、「研究展望 『承久記』(二〇一〇年九月以前)」(『軍記と語り物』52号、2016)において、
-------
また長村祥知〔二〇一〇〕は、慈光寺本が引用する、北条義時追討を命ずる承久三年五月十五日「後鳥羽上皇院宣」が実在したことを解明した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fe371163038f874da844371f30c93c8
と豪語されていますが、確かに2010年の長村論文(『中世公武関係と承久の乱』に「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」として所収)は膨大な数の院宣を収集・分析された大変な労作です。
また、この長村論文に対しては、西田友広氏を始めとする、古文書学に造詣の深い多くの研究者が緻密な検討をされています。
北条義時追討「院宣」をめぐる中世史研究者による古文書学的分析は、私のような古文書学の素人には近づき難いほど深遠な領域に入っていますが、単なる素人の私としては、そもそも慈光寺本のような、文書の様式にさほど興味も知識もない作者によって書かれた作品の一部について、そこまで真剣に検討しなくてもよさそうな感じもします。
仮に慈光寺本の作者が藤原能茂だという私見が正しければ、後鳥羽院の寵童として破格の立身を遂げた能茂は、武芸や蹴鞠などは得意であっても、院宣の作成のような事務的仕事は経験していないはずです。
もちろん、後鳥羽院に近侍していた能茂は様々な文書を見ていたはずであり、見様見真似でそれなりの文書を書くこともできたでしょうが、所詮、厳密な文書作成の訓練を受けていない能茂が適当にそれらしく書いた文書に、現代の研究者が緻密な学問的検討を加えているのだとしたら、いささか滑稽な作業のようにも思われます。
ちなみに、慈光寺本の作者は和歌の才能も全くなく、下手の横好きレベルですね。
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3fcae1598ca4be2c8b4c9b0f6b40b64
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます