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「心の傷」

2013-08-26 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月26日(月)20時49分38秒

>筆綾丸さん
『北条時頼』を読んでいて「もやもやした気持ち」になるのは、高橋慎一朗氏がいちいち時頼の心理分析をする点ですね。
例えば、宝治合戦に関し、高橋氏は

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 三浦泰村に和平の使者を派遣しながら、その直後に攻撃に転じた時頼の行動は、だまし討ちのようにも見え、後世の人々から非常に評判が悪い。(中略)
 実際には時頼が何とか全面的な合戦を回避しようとしていたのは本心であったと思われるし、先走ってしまった安達を押さえる力は当時の時頼にはなかったということであろう。逆に、いったん合戦が始まったのに躊躇していれば、安達を見殺しにするばかりか、三浦に味方する反時頼派(親頼経派)によって時頼自身が破滅する危険があったのである。時頼としては、しかたのない行動であったといえる。ただ、律儀で真面目な時頼にとって、心ならずも、誓約を破りだまし討ちにしたような結果となったことは、生涯にわたり強い心の傷となったであろうと想像される。(p80)
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という具合に、殺さなかったら殺される状況だったと丁寧に説明しているにもかかわらず、結論として「生涯にわたり強い心の傷となった」と言われる訳ですが、本当にそうなのか。
私は「武家の習い」の一言で解決したと思いますけどね。
時頼は私的なトラブルに巻き込まれた訳ではなく、伝統ある家、一族の代表として権力闘争を闘った訳で、過酷な武家の歴史を顧みれば、自己の行動の正当化は別に難しい話でもなんでもないと思います。

高橋氏の記述を辿ると、真面目な時頼は常に真剣に悩んで、結局37歳の若さでストレスにより早死にしました、みたいな感じになっていますが、良く分からないのは時頼の死と時頼が死の前年に「悟り」を得ていることとの関係です。

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 時頼は兀庵の指導により、弘長二年十月十六日の朝、悟りを得る。兀庵の「天下に道はただ一つであり、聖人の心もただ一つである」という助言を受けて、時頼は「森羅万象、山河大地のすべてが、自己とは区別ない一体のものだ」と語り、悟りの境地に達して全身から汗を流した。時頼は、「二十一年の間、朝夕望み続けてきたことを、この一瞬にすべて手に入れた」と感涙を浮かべ、九回礼拝した。兀庵は仏前に焼香して、時頼に法を嗣ぐ者と認めた(『東巌安禅師行実』)。
(中略)
 時頼は相当熱心に禅に帰依していたが、禅に何を求めていたかについては、諸説がある。近年は、禅に含まれる儒教的な教養(治世者の道徳)の習得が目的だったとする説が主流である(川添昭二『北条時宗』、村井章介『北条時宗と蒙古襲来』)。(中略)また、橋本雄氏は、時頼の禅の修行は、結果的に儒教的修養に役立ったが、自身の心の平安回復が本来の目的であったと主張する(「北条得宗家の禅宗信仰をめぐって」)。時頼の何事にも全力を注ぎこむ性格から考えて、儒教的教養と、精神の平安としての禅の悟りと、双方をともに求めていたのではなかろうか。そのなかでも、やはり心の平安を求める気持ちのほうがいくらかは勝っていたように感じられる。(p190~194)
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仮に「生涯にわたり強い心の傷」が続いたとしても、死の前年に「悟り」を得て「精神の平安」「心の平安」を確保したとすると、翌年の死亡はストレスや「心の傷」とは無関係の単なる病気じゃないですかね。
本人としては、「精神の平安」ばかりか「治世者の道徳」をマスターした以上、これからも元気一杯、国政の指導者として頑張ろうと思っていたのに、翌年、不運にも病気で死んじゃった、ということではないかと思います。
人生の最盛期に病気で死んでしまう人は現代にも多いし、まして医療レベルが格段に劣っていた中世では全く当たり前のことで、ストレスがどうのこうのと言うのは変じゃないですかね。
どうも高橋氏の描く時頼は、常に自分の内面を見つめて、「心の傷」がどうしたこうしたとウジウジ悩んでいる虚弱な現代人風で、何だかなあという感じですね。
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