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『〈民主〉と〈愛国〉』

2014-03-12 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月12日(水)22時48分2秒

久しぶりに東島誠氏の『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社メチエ、2010年)をパラパラめくっていたら、小熊英二が『<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社 2002年)で石母田正氏について何か言っているようだったので、同書を確認してみたところ、ちょっとひどい内容でした。(p352以下)
「国民的歴史学運動」への批判の後、小熊英二は次のように続けます。

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 運動の崩壊と前後して、石母田は体調を崩し、しだいに歴史学の表舞台から退いていった。運動終焉から五年たった一九六〇年、石母田は運動を自分なりに総括した「『国民のための歴史学』おぼえがき」を公表した。そこで彼は、自分の民衆イメージが貧困だったことを自己批判したあと、学問的運動を政治的動員の手段として利用しようとした共産党の「実用主義」を暗に批判し、さらにこう述べている。(中略)
 石母田はその後も体調の変化をおして研究を続けたが、一九七三年には不治の神経病であるパーキンソン病におかされ、読書や歩行すら困難な状態におちいった。妻に支えられ杖をついて、すっかり様変わりした八十年代の歴史学研究会の大会にやってきた石母田の様子を、藤間生大は「いたましかった」と形容している。一〇年以上にわたる闘病生活のあと、かつて戦火の中で執筆した「蹉跌と敗北の歴史」である『中世的世界の形成』の文庫版序説を絶筆として、石母田は一九八六年に死去した。
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小熊英二によれば、1955年以降、石母田氏は「しだいに歴史学の表舞台から退いてい」き、「その後も体調の変化をおして研究を続けたが、一九七三年には不治の神経病であるパーキンソン病におかされ、読書や歩行すら困難な状態におちい」き、「一〇年以上にわたる闘病生活のあと」「一九八六年に死去した」そうで、これでは石母田氏が30年以上、ろくな研究業績を残していないように読めますが、1973年の発病以前は全く事実に反しますね。
石母田氏の著作のレベルは「国民的歴史学運動」の挫折の後、明らかに従来より高度になっていますね。
私は最初の出会いがどうにも相性の悪い『中世的世界の形成』だったので、石母田氏への敬意は全く持っておらず、食わず嫌い状態だったのですが、実際に著作集を少しずつ読んでみたら、水林彪氏が「ブリリアント」と激賞されている「日本古代における分業の問題」「古代社会と手工業の成立─とくに観念形態との関連において─」(ともに1963年)は本当に優れた論文だし、『日本の古代国家』(1971)も世評通り傑作と言わざるをえないですね。
法政大学法学部長等の公職も多忙であったことを考えると、よくもこれだけのハイレベルな論文・著作を継続的に発表できたものだなと思います。
石母田氏の学者人生は、まさに学問的に最高のレベルに達した段階で、突然、病気により残酷にも断ち切られてしまった、ということではないですかね。
小熊英二は自分に都合の良いストーリーを予め作ったうえで、「国民的歴史学運動」に関係する僅かな著作のみを読み、石母田氏の学問的業績の全体を知らずに石母田氏を矮小化して描き出しているように感じます。

『〈民主〉と〈愛国〉』
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0819-2.htm

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