投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月28日(水)15時52分0秒
>筆綾丸さん
『北条時頼』巻末の「略年譜」を眺めていて、時頼が兀庵普寧の指導により悟りを得たとされる弘長二年(1262)は時頼と叡尊との関係も極めて濃厚な時期であることに少し奇妙な印象を受けました。
この年は『吾妻鏡』が欠落していて時頼の動向が分かりにくいのですが、律宗の立場からは時頼が異様なまでに叡尊に傾倒していたことになっていますね。
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弘長二年二月四日、六十二歳の叡尊は、弟子の定舜・盛遍・性如・性海らを従えて鎌倉へ向けて出発した。以後の一行の様子は、性海の『関東往還記』に詳しいので、これによって時頼との関係を中心に記していくことにする。(p206)
その後体調回復した時頼は、六月十三日に叡尊のもとを訪れた。「おいでになるのは難しいということでしたのに、今日のご訪問はどうしたことですか」と叡尊が尋ねると、時頼は「自分は、ありがたくも不肖の身で間違って幕府の実権を握ることになりました。戦々兢々とする思いは、まるで薄氷を踏むようなものです。そのため、わずかの距離の外出も容易ではなく、前回は私宅にお招きしました。しかし、よくよく考えてみれば、自分の安全ばかりを気にして参上しないのは、仏法を軽視するようなものです。前回のことを思い出しては、非常に後悔しております。地位や名誉のために何度か命を落とすほどの災いに遭いながら、仏法のためには少しも命を捨てようとはしてきませんでした。愚かなことこの上もありません。そこで、すべてをなげうって参上したのです」と言った。多少の誇張もあるかもしれないが、執権の職を去った後も、時頼が身の危険を感じるような政治的緊張状態が続いていたようである。(p209)
こうしてみると、実にまめに、うるさいくらいに時頼が叡尊と連絡をとっていることがわかる。(p212)
その後、叡尊が時頼に菩薩戒を授けたのがいつであったか、『関東往還記』が七月三十日条で終わっているため、不明である。ただし、結局叡尊は続く閏七月・八月も鎌倉に滞在することになり、『西大寺勅諡興正菩薩行実年譜』によれば、閏七月九日に鎌倉苑寺で聖徳太子開眼供養をおこなったことがわかる。時頼の再三の要請を断り切れなかったのであろう(和島芳男『叡尊・忍性』)。叡尊が鎌倉を発って西大寺へ帰り着いたのは、八月十五日であった(『感身学正記』)。
西大寺に戻った叡尊に対して、十月五日付けの時頼の手紙が、十一月八日に届いた。内容は、いまだ叡尊が後嵯峨上皇のもとへ参上していないことを気遣い、『宗鏡録』と文殊菩薩の獅子のための彩色絵の具代を送る旨を知らせるものであった。(p213)
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高橋慎一朗氏は「多少の誇張もあるかもしれない」と書かれていますが、律宗という当時の新興宗教の記録をどこまで信頼できるのか、「多少の誇張」で済むのかは若干の疑問が残ります。
さて、時頼が悟りを得た時期はというと、前回投稿で引用したように、弘長二年十月十六日の朝ですね。
ということは、律宗側の史料では時頼が叡尊に絵具代がどうしたこうしたという細かい手紙を送った十月五日のわずか十一日後です。
この近接状況をどのように考えるべきなのか。
叡尊が鎌倉に滞在した半年の間、貴賤上下を巻き込んだ律宗の盛り上がり、殆ど熱病のような興奮状態を禅宗関係者がどのように眺めていたかを想像すると、まあ、そこは人間ですから、あまり良い感情は持ちようがなかったと思います。
とすると、十月に行われた兀庵普寧の時頼に対する教育的指導は、暫く叡尊に夢中になっていた時頼の頭が少し冷えた時期に、時頼を禅宗側に引き戻そうとした禅宗側の巻き返しの動きなのではないですかね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6895
>筆綾丸さん
『北条時頼』巻末の「略年譜」を眺めていて、時頼が兀庵普寧の指導により悟りを得たとされる弘長二年(1262)は時頼と叡尊との関係も極めて濃厚な時期であることに少し奇妙な印象を受けました。
この年は『吾妻鏡』が欠落していて時頼の動向が分かりにくいのですが、律宗の立場からは時頼が異様なまでに叡尊に傾倒していたことになっていますね。
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弘長二年二月四日、六十二歳の叡尊は、弟子の定舜・盛遍・性如・性海らを従えて鎌倉へ向けて出発した。以後の一行の様子は、性海の『関東往還記』に詳しいので、これによって時頼との関係を中心に記していくことにする。(p206)
その後体調回復した時頼は、六月十三日に叡尊のもとを訪れた。「おいでになるのは難しいということでしたのに、今日のご訪問はどうしたことですか」と叡尊が尋ねると、時頼は「自分は、ありがたくも不肖の身で間違って幕府の実権を握ることになりました。戦々兢々とする思いは、まるで薄氷を踏むようなものです。そのため、わずかの距離の外出も容易ではなく、前回は私宅にお招きしました。しかし、よくよく考えてみれば、自分の安全ばかりを気にして参上しないのは、仏法を軽視するようなものです。前回のことを思い出しては、非常に後悔しております。地位や名誉のために何度か命を落とすほどの災いに遭いながら、仏法のためには少しも命を捨てようとはしてきませんでした。愚かなことこの上もありません。そこで、すべてをなげうって参上したのです」と言った。多少の誇張もあるかもしれないが、執権の職を去った後も、時頼が身の危険を感じるような政治的緊張状態が続いていたようである。(p209)
こうしてみると、実にまめに、うるさいくらいに時頼が叡尊と連絡をとっていることがわかる。(p212)
その後、叡尊が時頼に菩薩戒を授けたのがいつであったか、『関東往還記』が七月三十日条で終わっているため、不明である。ただし、結局叡尊は続く閏七月・八月も鎌倉に滞在することになり、『西大寺勅諡興正菩薩行実年譜』によれば、閏七月九日に鎌倉苑寺で聖徳太子開眼供養をおこなったことがわかる。時頼の再三の要請を断り切れなかったのであろう(和島芳男『叡尊・忍性』)。叡尊が鎌倉を発って西大寺へ帰り着いたのは、八月十五日であった(『感身学正記』)。
西大寺に戻った叡尊に対して、十月五日付けの時頼の手紙が、十一月八日に届いた。内容は、いまだ叡尊が後嵯峨上皇のもとへ参上していないことを気遣い、『宗鏡録』と文殊菩薩の獅子のための彩色絵の具代を送る旨を知らせるものであった。(p213)
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高橋慎一朗氏は「多少の誇張もあるかもしれない」と書かれていますが、律宗という当時の新興宗教の記録をどこまで信頼できるのか、「多少の誇張」で済むのかは若干の疑問が残ります。
さて、時頼が悟りを得た時期はというと、前回投稿で引用したように、弘長二年十月十六日の朝ですね。
ということは、律宗側の史料では時頼が叡尊に絵具代がどうしたこうしたという細かい手紙を送った十月五日のわずか十一日後です。
この近接状況をどのように考えるべきなのか。
叡尊が鎌倉に滞在した半年の間、貴賤上下を巻き込んだ律宗の盛り上がり、殆ど熱病のような興奮状態を禅宗関係者がどのように眺めていたかを想像すると、まあ、そこは人間ですから、あまり良い感情は持ちようがなかったと思います。
とすると、十月に行われた兀庵普寧の時頼に対する教育的指導は、暫く叡尊に夢中になっていた時頼の頭が少し冷えた時期に、時頼を禅宗側に引き戻そうとした禅宗側の巻き返しの動きなのではないですかね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6895
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