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律宗マジック

2013-08-29 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月29日(木)22時21分31秒

>筆綾丸さん
律宗側の史料が描く時頼像と禅宗側の史料が描く時頼像は、とても同一人物とは思えないほどの相違がありますね。
どちらが信頼できるかとなると、ご指摘のように時頼が基本的には「禅の人」であることに加え、草創期の律宗には非常に胡散臭いところがあるので、やはり禅宗側ではないかと思います。
律宗が驚くべきスピードで勢力を拡大した要因のひとつは叡尊が次々と起こす舎利増殖の奇跡ですが、まあ、これは叡尊本人または側近が関与しているに違いないマジックですね。
高橋慎一朗氏は『関東往還記』について「多少の誇張もあるかもしれない」と書かれていますが、この種の手品を平気でやれる図太い教団の記録ですから、時頼関係の部分は8割引きぐらいで考えるとちょうど良いような感じがします。

細川涼一氏「王権と尼寺」

ま、それにしても時頼が律宗にも好意的だったことは間違いありませんが、これも時頼個人の資質・趣向というより、院政期の天皇・上皇の仏教に対する接し方を直接の参考とした統治者としての自覚の反映ではないかと思います。

>最明寺
浄光明寺は北京律の系統で、現在も真言宗泉涌寺派ですね。
同音の西明寺の場合、天台宗(湖東三山)、真言宗(益子)等、宗派はバラバラなので、「明」は特定の宗派に限られる文字ではなさそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「禅の人」 2013/08/29(木) 15:26:59
小太郎さん
私には、最明寺という名と禅宗との関係が、依然としてよくわかりません。寺の名の由来について、何か言及してくれるのではないか、と淡い期待をしていたのですが。

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時頼にはまた、信濃善光寺への信仰もうかがわれる。善光寺は、阿弥陀如来を本尊とする浄土信仰の中心であり、「東国の守り本尊」として東国武士の信仰を広く集めていた。弘長三年(一二六三)三月十七日、時頼は信濃国深田郷の田地を買得して善光寺に寄進し、不断経衆と不断念仏衆への手当とさせている(『吾妻鏡』)。
こうした時頼の善光寺信仰が背景となっていると思われるのが、神奈川県大井町の最明寺の事例である。最明寺は、鎌倉時代初めに御家人出身で善光寺信仰を広めた源延の建立とされ、善光寺式阿弥陀三尊などを伝えている。のちに時頼が堂・所領を寄進して最明寺と名づけたとも伝えられ、南北朝期作の木造時頼像が残されている(略)。時頼が、善光寺の阿弥陀如来を信仰したことと、善光寺信仰の寺が結びついて、時頼創建の寺と同名の「最明寺」という名が残されたのである。(202頁)

七月十七日、将軍宗尊親王が山ノ内の最明寺を参詣した。時頼が出家の準備を内々に進めていたので、この日の将軍参詣となったという(『吾妻鏡』)。つまり、時頼が出家に備えて建立したのが最明寺で、この日からさほど遠くない時期に、時頼の山ノ内の別荘に隣接して建てられたものである(『鎌倉廃寺事典』)。(152頁)

・・・時頼は最明寺で出家した。ときに、三十歳である。出家の戒師は蘭渓道隆、法名は「覚了房道崇」であった(『吾妻鏡』)。(154頁)
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最初の文からは、確実なことは言えず、また、出典も不明ですが、浄土宗の浄光明寺(扇ヶ谷)や光明寺(材木座)等の名称の類推から(200頁~)、最明寺は浄土宗に由来する名称のような気がします。もしそうならば、なぜ時頼は自分の寺に浄土宗風の名を用いたのか。
出家も禅宗系、悟達も禅宗系、遺偈も禅宗系と禅宗尽くしなので、時頼は基本的には禅の人のようですが、律宗をはじめ他宗派が熱病のように時々憑依するので、各宗派の長老達は薄氷を踏むような思いで一喜一憂(迷惑)したのではあるまいか。そんな気がします。もし基督教が伝来していたら、これにも入れあげたであろう、とまでは思わないのですが。

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