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歩くことが唯一の趣味ですから。

伏見と山科

2021-03-20 | Weblog
天智天皇は行方不明になって遺体が見つからず、沓(くつ)だけ見つかったので
その場所を沓塚として陵墓の代わりにしたというので見物に行こうと思ったら、
伏見にも山科にも沓塚がある。どちらも天智天皇ゆかりの地だという。両方とも
見物してみることにした。



その前に腹ごしらえ。京都から近鉄に乗って、丹波橋で京阪電車に乗り換える際
どうしても改札前の「カスケード」というベーカリーカフェに寄り道してしまう。
パンがおいしい。ところで沓塚はなぜ2か所にあるのだろう。それぞれ右と左の
沓が片方ずつ落ちていたとでもいうのか。



京阪電車に乗り換えて、藤森という駅で下車する。疎水の橋を越え、深見商店街
を北上して聖母学院小の角を東に曲がる。すぐ沓塚があるはずだが見当たらない。
やむをえず文明の利器、スマホで沓塚陵墓参考地(伝聖宝墓)を検索して地図を
表示すると、驚くべき結果が出た。



宗教法人カトリック ヌヴェール愛特修道会の場所が沓塚だとナビで表示された。
そんなバカな。いくらカトリックが異教に厳しいとはいえ、この時代に異教徒の
墓をつぶして修道会の施設にするほどではあるまい。気を取り直し、その近くを
うろついて匂いをかぐ。



2軒となりの住宅の脇にあやしい門をみつけた。奥が通路になっている。この門、
何も書かれていない。そこが匂う匂う。隙間から入り込んで奥へ奥へ歩いてみる。
そうしたら案の定あった。



人知れず拉致り殺された天智天皇の形見の沓が埋まる塚だ。後世の人は七世の孫
の墓とも伝えるようだが、七世も後に塚など作られはしない。何か隠している。
こんなところで天皇が暗殺されて遺体も見つからず沓だけ残されていたなんて、
そのまんま伝承できないから誤魔化している。



さらに奥へ回り込んでみると、さっきと同じ門がある。この門は、宮内庁が管理
する古墳や塚のたぐいに敷設されていることが多い気がする。こんもりうず高く
盛り上げた土のてっぺんに何か墓石のようなものがある。



なんて書いてあるか、よくわからない。大化の改新というテロ行為で蘇我氏から
権力を簒奪した天智天皇(テロ当時は中大兄皇子)はその後、百済に肩入れして
半島に派遣した兵が唐と新羅にコテンパンにされたから怯えてしまい、琵琶湖の
ほうへ遷都はするし、それでも百済に味方するので人心が離れた。



だから新羅と友好な関係を結ぶ人たちに殺されたのだろう。天智の後に即位した
天武天皇も新羅に肩入れしている。要するに政争に生きて政争に死んだわけだ。
中臣鎌足を祖として政権に食い込んだ藤原氏だけが実利を得た。『日本書紀』の
編纂さえ行い、歴史を決定的にねじ曲げた。



再び京阪電車に乗って三条で地下鉄東西線に乗り換え、御陵(みささぎ)で下車
すると今度はわかりやすい地図が出てる。山科のほうの沓塚、天智天皇の御陵。
とはいえ遺体は見つかってないから、沓が埋まってるだけ、



そのわりに立派だ。立派すぎる。暗殺されてすぐに、息子の大友皇子と異母弟の
大海人皇子(天武天皇)が天下分け目の壬申の乱を戦い、どさくさ紛れに皇位を
簒奪した側が歴史を歪曲している真っ最中に築いたにしては立派すぎる。宮内庁、
古墳の比定に虚実を織り交ぜがちだから。



ここには天智天皇の遺体がないだけでなく、他の大君の遺体があるのではないか。
とっくに盗掘されて何もないとしても、ほかの誰かの遺体があったのではないか。
万葉集には天智天皇の死に臨んで皇后が詠んだ歌があり、意味はよくわからない
けれども木幡という土地(伏見と山科の両方に近い)に拉致られて殺されたかも
しれない。そこに遺体が埋まってるのでは? 巻第二の一四八。

 青旗の木幡の上を通ふとは 目には見れどもただに逢はぬかも


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