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歩くことが唯一の趣味ですから。

日光街道

2021-10-10 | Weblog
徘徊の元祖で俳諧の本家の芭蕉の死後に刊行された『奥の細道』を先っちょだけでも感じてみようと
千住大橋にきてみた。この橋を渡ると江戸の外に出る、隅田川に初めて架かった橋。いまは南千住と
北千住のほぼ中間にあたる。つまり北千住あたりは江戸の外だった。日光街道の最初の宿場の千住は
この橋の両側に分かれていたようだ。品川、新宿、板橋とならぶ江戸四宿の一つ。



現在の千住大橋は昭和2年に架け替えられた鋼橋で、ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存最古の
例だそうだ。400年前はただ「大橋」と呼ばれ、いまの千住大橋にもただ「大橋」というプレートが
掲げてある。旅立つ前から「月日は百代の過客にして」とか何とか御託を並べつつ泣いてばかりいた
(と書いてある)芭蕉は、旧暦3月27日に門人の曽良をともなって深川を舟で発ち、隅田川を遡り、
千住でたくさんの門人に見送られて歩き出した。そのときも泣いたと、『奥の細道』に書いてある。
いつも嘘泣きばかりしている、やっかいな徘徊老人なのだった。



さて大橋を渡ると道が二股に分かれて、左へ行けば自動車がビュンビュン走る日光街道、右へ行けば
旧日光街道(イチニチ日光街道ではなくキュウ日光街道)だ。旧街道らしい幅の道がまっすぐつづく。
戻れば街道の起点、日本橋へ。進めば次の宿場、草加へ。とりあえず散歩は草加をめざす。芭蕉たち
は、さらに春日部、栗橋、古河を通って4月1日に日光へ。4月29日に郡山、5月1日に福島、3日
に白石、4日に仙台、8日に塩釜、10日に石巻、12日に一関に到着し、平泉の中尊寺や山形の立石寺
を経て6月1日に新庄、3日に羽黒山、6日に月山、13日に酒田、16日に象潟まで北上して引き返し
7月2日に新潟、4日に出雲崎、6日に直江津、15日に金沢、永平寺を経て8月12日に福井、8月末
に大垣に着いている、



その道のりは600里あまり(芭蕉は旅立つとき前途三千里と記したが、さすがに盛りすぎ)約150日
に及ぶ散歩だった。今日のところは草加までしか歩かない。旧日光街道を歩いて行くと北千住に着く。
旧街道沿いが商店街になっていて、飲食店なども軒を並べて賑やかだ。以前「大はし」という飲み屋
に寄ったときは気づかなかったけど、千住の大橋が店名の由来だったのか。大橋を渡って来た今なら
わかる。あとで「大はし」に戻ってこようかと思ったが、この土日は店が休みだった。



鴎外、森林太郎の旧居跡の碑があった。道中をちょっとはずれた場所。そもそも鴎外という筆名も、
人の暮らしをはずれた者という含みがあったと何かで読んだことがある。それでこんな江戸の外の、
道をはずれた寂しいところに、場末の色街から少し離れて暮らしたということだろうか。近いけど、
離れたというには目と鼻の先だけれども。この旧居のすぐ先に、前に来たことがある投げ込み寺が
あって「なんだここか」と思った。金蔵寺。なんだって鴎外の父はこのような辺鄙な土地に橘井堂
医院を開業したんだろう。鴎外、わざとではなくやむをえず橘井堂に暮らしたらしい。



日光道中(街道ではなく道中が正式な名称だそうだ)に戻って、本陣跡のちっこい石碑を北千住の
駅前に確認し、さらにまっすぐ行くと団子屋に人が群がっていた。かどやの槍かけ団子。やりかけ
=できかけをカジュアルに食わせる店かと思った。百円渡すと串団子を渡され、その場で食べて、
串を捨てる。並んでまで食べる気はしないけど人がそうしてるのを眺めて通り過ぎた。やりかけは
できかけではなく、松の木に槍をかけて休んだ参勤交代の逸話か何かが由来らしいけど、作り話だ
と思って詳しく記憶しなかった。



荒川の手前の安養院に、かんかん地蔵があった。足元に転がる石で、かんかん顔を叩かれて削られ
のっぺらぼうの顔なし地蔵となっている。恨みを込めて、かんかんやったと考えるのが自然だけど、
悪いところが治るように祈りを込めて、かんかん石で叩いたとか何とか……それじゃ、顔が悪かった
ということだろうか。顔がよくなるように地蔵の顔を石でかんかん叩き削る千住の遊女を想像する
のは結構こわい。恨みを込めてやったと考えるほうが、こわくない。



荒川を千住新橋で越える。この川は江戸時代なかった。明治になって水害がひどいので解決しよう
と約20年がかりで掘削した放水路、それが荒川。だから日光街道、日光道中はもともと陸続きで、
現在の荒川土手を斜めに横切るように通っていた。いまは仕方ないから荒川新橋を渡って、土手を
左にちょっと進んでから、元の日光街道=日光道中をみつけ、続きを歩く。



このように、どうってことない道路をひたすら北のほうへ歩いていく。道幅が旧街道らしく4間
ぐらいなので、実際にその場に行けば街道の感じがするけれど、写真に撮るとそこらへんの道路
と何ひとつ変わらない。10月というのにジリジリ日差しが肌を焼き、思ってたような快適な散歩
じゃなくなってきた。どうしてこんな何にもないところを歩いてるんだろう、という思いが頭を
もたげてくる。千住から、次の宿場の草加まで歩くつもりだったけど、やめようか……。



まだ竹の塚か。電車なら竹の塚なんてすぐなのに歩くと遠い。水泳選手の実家が営むもつ焼きの
店めがけて会社帰りに電車で寄ったの、いつだっけ……4年ぐらい前、取材する前か何かだった
かもしれない。そんなことを思い出しながら、ひたすら足立区を通る。こうして歩くと足立区は
広大だ。なかなか埼玉にたどり着かない。



途中、いくつか神社などに寄り道しながら日光道中を北上し、ようやく埼玉県に入った。草加。
せんべいで有名な草加。そして千住の次の宿場である草加。もくもくと歩き、道草を食いながら
宿場から宿場まで歩いた。南千住からだから、10kmぐらいだろうか。



浅間神社に寄って休む。神社は木陰に風が通るから散歩の途中つい寄ってしまう。ついでに絵馬
があれば見ていく。千住から草加にかけて、面白いことが書いてある絵馬はなかった。日光道中、
あまり絵馬のことは期待できないかもしれない。



秋まつりの支度をしていた。歩き疲れて、ぼんやり眺める。これという感想も浮かんでこないし、
写真に撮らなければ忘れていたのではないだろうか。



富士塚のまわりを一周して(登ることは禁じられていたので)日光道中に戻り、ひたすら草加駅
をめざす。駅前のコメダ珈琲でブログを書いて、電車で帰る。電車は便利な乗り物だと思った。

関連記事:    千住


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