諫早から島原鉄道でガタゴト1時間、島原についたら昼ごはんでもと思っていたのに駅のまわりに飲食店がない。
しかたなく売店でポテチを買って食べ、駅から見える島原城のほうへ歩く。
島原藩士がたてこもった島原城
10月25日、島原藩の大名・松倉勝家の家臣で有馬村の代官・林兵左衛門らが有馬村の百姓により殺害された。
飢饉がもう何年も続いているのに、ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出るとばかりに悪代官が年貢を取り立て、
うらみを買って殺された。島原藩士がただちに鎮圧しようと有馬村に向かったが、一揆に押されて島原城に撤退。
百姓キリシタンが数日にわたって城を攻め立てた。
2日後の10月27日には
天草諸島でもキリシタンが蜂起し、下島の富岡城を包囲して攻めたてた。島原半島と天草諸島をあわせて、住民
3万7千人が一揆を起こした。1637年のことで、秀吉以来のキリシタン弾圧で棄教してたにもかかわらず、蜂起の
機会に改めてキリシタンにもどった「立ち返りキリシタン」が多かった。
そして原城にたてこもる
彼らは島原城、富岡城を攻め落とすことができず、海に面した原城に集結して籠城した。11月9日に一揆の報告
を受けた徳川の3代将軍・家光は、ただちに原城の攻略を命じ、12月5日には諸大名による12万4千の討伐軍が
原城に総攻撃を仕掛けた。その原城に行きたいのだけどガイドブックに記載がないので、しかたなく観光協会に
電話をかけて聞いてみた。
「原城に行きたいのですが」
「いまどちらですか?」
「島原城です」
「島鉄バスの、カズサ海水浴場前行きに乗って原城前で下車すると
徒歩10分から15分です」
1時間に1本のバスで原城前へ
たっぷり1時間バスに揺られて、ようやく原城のほうへ。なかなか交通が不便だ。今年、キリシタン関連の遺跡群が
世界遺産に認定されたけど、訪ねてくる人がまだ少ない。
3万7千人 vs 12万4千人の戦場
戦争を知らない子供たちどうし戦っているせいか、島原城も富岡城も落ちなかったし、原城も圧倒的な人数の差が
あるにもかかわらず落ちなかった。
けっこう大きな城だったようだ…
周囲4km、どう見ても島原城より大きい。皇居ランナーが時計と逆まわりに走る江戸城(内堀)が周囲5kmだから、
考えてみると原城なかなか立派。
三の丸の跡に誰かの墓がある
家光に命じられて12万4千の軍を指揮していた板倉重昌とやらが、とうとう正月に銃撃を受けて死亡してしまった。
そのことを記した碑が、三の丸の跡にあった。元旦に死んだらしい。正月4日には幕府老中で知恵伊豆と呼ばれた
松平信綱が指揮官として赴任してきて兵糧攻めをはじめる。
名もなきキリシタンの墓
2月の終わりにやっと鎮圧。まるまる4か月もかかり幕府側の死傷者は8千人とも、1万2千人とも。籠城した側は
皆殺しで、3万7千人だから太平洋戦争の硫黄島の戦死者より多い。女子供も皆殺し。
本丸と二の丸のあいだの空堀に3千人ひそんだ
女子供が隠れた空堀は、いまも当時のまま。落城の翌日から、3日がかりで3千人が斬首された。知恵伊豆の息子
18歳の輝綱の日記に「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と書いてあり、3千人の
女子供みんな喜んで首を斬られた。
天草四朗時貞の像
このあたりの住民は全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、和津佐、串山は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、
三会などは村民の半数が一揆に加担して死んだ。3万7千人プラス8千人ないし1万2千人の死体を片付ける人手も
ないから、白骨の隙間に雑草が繁る島原はそのまま10年間、放置された。10年目に骨を集め、九州の僧を呼び寄せ
数夜にわたり供養した。他国から農民を移住させた。ずっと年貢が上がらなくて武士もこまった。
キリシタンも懲りて潜伏を強めた
関連記事: 大村 (20年後の郡崩れ)
しかたなく売店でポテチを買って食べ、駅から見える島原城のほうへ歩く。
島原藩士がたてこもった島原城
10月25日、島原藩の大名・松倉勝家の家臣で有馬村の代官・林兵左衛門らが有馬村の百姓により殺害された。
飢饉がもう何年も続いているのに、ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出るとばかりに悪代官が年貢を取り立て、
うらみを買って殺された。島原藩士がただちに鎮圧しようと有馬村に向かったが、一揆に押されて島原城に撤退。
百姓キリシタンが数日にわたって城を攻め立てた。
2日後の10月27日には
天草諸島でもキリシタンが蜂起し、下島の富岡城を包囲して攻めたてた。島原半島と天草諸島をあわせて、住民
3万7千人が一揆を起こした。1637年のことで、秀吉以来のキリシタン弾圧で棄教してたにもかかわらず、蜂起の
機会に改めてキリシタンにもどった「立ち返りキリシタン」が多かった。
そして原城にたてこもる
彼らは島原城、富岡城を攻め落とすことができず、海に面した原城に集結して籠城した。11月9日に一揆の報告
を受けた徳川の3代将軍・家光は、ただちに原城の攻略を命じ、12月5日には諸大名による12万4千の討伐軍が
原城に総攻撃を仕掛けた。その原城に行きたいのだけどガイドブックに記載がないので、しかたなく観光協会に
電話をかけて聞いてみた。
「原城に行きたいのですが」
「いまどちらですか?」
「島原城です」
「島鉄バスの、カズサ海水浴場前行きに乗って原城前で下車すると
徒歩10分から15分です」
1時間に1本のバスで原城前へ
たっぷり1時間バスに揺られて、ようやく原城のほうへ。なかなか交通が不便だ。今年、キリシタン関連の遺跡群が
世界遺産に認定されたけど、訪ねてくる人がまだ少ない。
3万7千人 vs 12万4千人の戦場
戦争を知らない子供たちどうし戦っているせいか、島原城も富岡城も落ちなかったし、原城も圧倒的な人数の差が
あるにもかかわらず落ちなかった。
けっこう大きな城だったようだ…
周囲4km、どう見ても島原城より大きい。皇居ランナーが時計と逆まわりに走る江戸城(内堀)が周囲5kmだから、
考えてみると原城なかなか立派。
三の丸の跡に誰かの墓がある
家光に命じられて12万4千の軍を指揮していた板倉重昌とやらが、とうとう正月に銃撃を受けて死亡してしまった。
そのことを記した碑が、三の丸の跡にあった。元旦に死んだらしい。正月4日には幕府老中で知恵伊豆と呼ばれた
松平信綱が指揮官として赴任してきて兵糧攻めをはじめる。
名もなきキリシタンの墓
2月の終わりにやっと鎮圧。まるまる4か月もかかり幕府側の死傷者は8千人とも、1万2千人とも。籠城した側は
皆殺しで、3万7千人だから太平洋戦争の硫黄島の戦死者より多い。女子供も皆殺し。
本丸と二の丸のあいだの空堀に3千人ひそんだ
女子供が隠れた空堀は、いまも当時のまま。落城の翌日から、3日がかりで3千人が斬首された。知恵伊豆の息子
18歳の輝綱の日記に「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と書いてあり、3千人の
女子供みんな喜んで首を斬られた。
天草四朗時貞の像
このあたりの住民は全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、和津佐、串山は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、
三会などは村民の半数が一揆に加担して死んだ。3万7千人プラス8千人ないし1万2千人の死体を片付ける人手も
ないから、白骨の隙間に雑草が繁る島原はそのまま10年間、放置された。10年目に骨を集め、九州の僧を呼び寄せ
数夜にわたり供養した。他国から農民を移住させた。ずっと年貢が上がらなくて武士もこまった。
キリシタンも懲りて潜伏を強めた
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