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歩くことが唯一の趣味ですから。

2021-12-04 | Weblog
全国的には無名でも福井・石川・新潟のほう、越の国では大徳として敬われた私度僧の泰澄大師はわけあって架空の人物とされてきたが、じつは天皇の直系であり皇位継承候補No.1の人物だったという本を読んだ。
 
 
乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子(天智天皇)をかついで藤原姓を賜った鎌足の子、不比等の謀により越の国に逃れざるを得なかった幼な子が長じて僧となり、古来の神々と仏の垂迹を説いて神仏習合の白山信仰を開いたのだが、不比等が日本書紀を編むにあたり念入りに歴史から消し去ったという。
 
 
その泰澄大師の墓がある、越知山大谷寺にきた。乙巳の変(大化の改新)で斃された蘇我氏こそ天皇家であり、中大兄皇子(天智天皇)の死後に壬申の乱を起こして即位した天武天皇は天智の弟ではなく蘇我入鹿の血を引く正当な天皇だったが、その後を継いだ大津皇子を不比等が謀殺して即位の事実を消し去った。女帝(持統)を立てて、天智の家系が正当な皇室であると示す日本書紀を作ることで歴史を捻じ曲げた。その際に天武が天智の弟だったことにした。
 
 
天武の死後に即位した大津皇子を抹殺し即位をなかったことにしても、その長子である粟津王が生きていては皇位継承権の第一位は粟津王であり、正統な蘇我の血統を排除できない。いずれ累が及ぶであろう幼い粟津王は越の国に逃れ、長じて泰澄大師になったというのが『藤原不比等が最も恐れた男 伝説の高僧・泰澄大師 実は天武天皇の嫡孫であった』長谷川義倫・著、国山古代史研究所・刊(2015年1月13日初版、2020年12月21日改訂)の記述だった。
 
 
飛鳥時代の話であり、天武11年(682年)生まれの粟津王が没したという天平神護3年(767年)までの間にこの大谷寺ができたのなら1300年ほども昔になる。仏教はまだ地方に浸透しておらず、政権を取り戻すための武力拠点として各地に寺院を建立するには古来の神々を取り込まなければならなかった。それが本地垂迹・神仏習合であり、白山信仰として越を中心に全国へ広まった。
 
 
白山信仰の一大拠点となった平泉寺の越前馬場は、天正2年(1574年)の一向一揆で浄土宗の信者に焼かれ、平安時代の聖観音菩薩像がかろうじて土中に埋められ難を逃れた。明治の廃仏毀釈のとき顕海寺に隠されて毀釈を逃れた観音像を夢に見て、元のお堂に戻した人の孫が90歳を超えた今もお堂を管理している。
 
 
管理人がいなくなったら、たびたび難を逃れた聖観音菩薩像はどうなるのだろうか。このお堂の向こうの坂を上れば、やがて白山の頂に至るはず。そこには神仏習合した白山信仰の秘仏が長らく立ち並んだが、やはり明治の廃仏毀釈のとき、里に下されて無量光院林西寺に匿われた。
 
 
秘仏であるから写真撮影は禁止。しかしパンフレットに載っているので、それを写して上げる分には仏罰も神罰も当たるまい。白山御本地仏の十一面観世音菩薩立像を初めとする、維新まで山上に安置された仏像の数々。十一面観音なら日本中にあるが、それらは白山信仰と関係あるかもしれない。
 
 
いちばん右にあるのが泰澄大師座像で、白山の弥陀ヶ原御前室堂に安置されていたもの。だんだん興味が出てきたので、いつか白山に登ってみたい。
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