プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★バーチャル・クラブ

2008-04-22 09:28:39 | 日記・エッセイ・コラム

 小ブログに時々寄せられるコメントを読む度に勇気付けられる。コメントの大半は、走ることを趣味としている人からだ。その人たちを「走友」と名付け、時悠人のバーチャル・クラブと呼ぶ身勝手をお許し願いたい。

 走力レベルも違えば目的も異なるだろうが、ランニングを楽しむ点では共通だけにコメントに流れる思いがひしひしと伝わってくる。1年に1,2度しか顔をあわせる機会がなくても、この大地のどこかで汗している光景を思い浮かべるだけでも、勇気付けられる。

 レース前に顔を合わせ一言、二言交わすだけだが懐かしく心嬉しいひと時だ。それぞれのペースで調整し、大会に参加する。今では走友とタイムを競う貪欲さも失せたが、自分自身で設定した目標を目指して孤独な世界に没入する。そして、チームで参加しない限り、ゴール後はまたそれぞれに散っていく。

 マラソンを人生にたとえる人がいるが、苦しさの比喩だとすれば、間違いだ。レース途中の苦しさは設定レベルに比例するし、結果も努力した量に合致するハンディのない競技だ。このさらりとしたダイナミズムが私は大好きだし、マラソンの醍醐味とも思う。


★人生試練航路

2008-04-21 10:06:39 | 日記・エッセイ・コラム

 昨夕かかってきた一本の電話で、今年の行事予定を抜本的に見直す必要性が生じた。それはクライストチャーチに住む娘からだった。今年暮に、夫君の実家を改築する機会に、挙式したいとの予告。いずれその時期が来るとは思っていたが、今年1月、我が家に戻った時には話題にならなかっただけに、あまりにも唐突に感じられた。

 彼の実家はダニーデン。クライストチャーチからさらに南に350㎞も離れた南極に近い人口12万人ほどの小さな町だ。先方の詳しい家族構成や両親の名前も顔も知らない。二人兄妹で、妹夫婦がパースに住み子供が2人いるという程度の情報しかない。勿論、私たち夫婦は行ったことがないし、挙式の風習や決まり事などの予備知識は皆無に等しい。

 日本国内でも土地柄により結婚式の形態に違いがあるのに、外国でしかもローカル色の強い辺鄙な都市だけに喜びよりも不安がまさる。ボケないように刺激を与えられたのだと受け止める余裕など全くなく、昨夜は二人で思案にくれるありさまだった。

 12月にエジプト旅行を計画していたから、出鼻をくじかれた思いだ。過去、2度にわたり予定しながら諸般の事情で実現しなかっただけに、今年こそはとのこだわりが強かった分、複雑な思いだ。世の中、時悠人とて思い通りにはならないものだ。


★加齢と健康の葛藤

2008-04-20 11:21:48 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は「健勝マラソン日本海大会」が開催される。参加するならとっくに出発している時間なのに、早朝ジョグを中断しているうちに朝起きるのが億劫になり、町内の清掃活動の集合時間(午前7時)に遅刻するありさまだった。

 習慣とはおそろしいものだ。と同時に、色々な活動面で微妙だが確実に加齢による変化が生じていることに驚かされる。何十年間も酷使してきた体には、多少の歪みが生じても何ら不思議はないのだが、常に満足な機能を期待してしまう。分相応というのは、運動レベルにもいえるはずなのに、頑なに認めようとせず、つい無理をしてしまう。そこがスポーツの面白みでもある。

 私のコーチ役にあたる二人のトライアスリートも故障続きで最近は満足な結果が出せないでいる。一人は、入退院を繰り返し、ここ2年間レースから遠ざかっている。3年前にはエイジ別トライアスロンの日本代表にもなっただけに無念さも人一倍に違いない。もう一人は、低迷期を脱し、今日の健勝マラソンに出ている。最近、納得出来る結果が出ないと不満顔だが、同年齢の私から見れば足元にも及ばない高レベルのタイムだ。

 加齢による体力の衰えを実感しつつ、それを克服しようと懸命に努力する姿勢の中に真の健康管理の理念が存在するのであって、政策的にメタボ対策を実施するのは実にナンセンスだ。長期的観点から総医療費の削減を目指すなら、病院に通わずにすんだ健康優等生に保険料を還付する方がはるかに有効だと思うのだが。


★憂国のこころ

2008-04-19 09:57:50 | 日記・エッセイ・コラム

 朝、民放テレビ番組で大阪府知事が打ち出した1,100億円削減試案に対する府下市町村長との対話会の模様が報じられた。「血も涙もない改革案だ」「即時白紙撤回せよ」「府民の目線に立って考えよ」と批判が噴出し、橋本知事が涙声で協力を訴える一幕もあった。

 提出された施策を批判するのはた易い。だが、批判だけで問題が解決する筈もない。夕張市のモンスター版が大阪府だ。大ナタをふるって財政再建を進めようとする憂国の士に対する支持者が本当にいないのだろうか。善良な府民は、それなりの痛みを覚悟のはず。総論では合意形成は容易だが、各論になると利益相反する者は反対する。橋本知事が具体的な施策を提案したのだから、真摯に受け止め真剣に検討すべきだ。

 大阪府が抱える問題は他自治体にも共通で、国全体が抱える問題と本質的には同根だ。肥大化した行政組織が不正・無駄遣いの温床に堕落したもの。今までにも改革派と評された首長が出ているが、どうして全国的な広がりを見せないのだろうか。地方の独自性を主張し、分権を訴えたいのであれば、率先して範を示すべきはず。だが、範を示した前長野県知事は国からの補助金を大幅に削減されたし、前山口市長は基地問題に異議を唱えて50数億円を棒に振った。

 敗戦の痛みに耐え、復興・高度経済成長を支える痛みに耐え、老いて年金と保険の痛みに耐えている人達に、今後さらにいま以上の痛みを与えることが見えているこの国の構造を変える特効薬は無いのだろうか?同じ愚を何度も繰り返してほしくないと祈っている。


★敬老⇒軽老?

2008-04-18 10:17:10 | 日記・エッセイ・コラム

 スタートして間もない長寿医療制度を見直すとか廃止すべきとか紛糾している。日本の皆保険・皆年金制度は、世界にも誇るべきものと思うだけに、運用面で不手際があるのが残念だ。

 そもそも、皆保険制度は全国民の相互扶助の精神が根底に流れており、農耕民族の最大の美点ともいえる。全員が応分の負担をすることで共同体の秩序が守られる。それなら、なぜ最初は75歳以上の老人をことさらに負担軽減したのかとの疑問が生じ、老人健康保険の沿革を調べてみた。

 老人健康保険制度は昭和58年に誕生し、最初は70歳以上を対象としたがその後、いろいろな改正が実施されている。詳細なデータは別として、昭和58年と言えば日本人の平均寿命は73歳で全人口に占める割合が数パーセント。いわば、70歳以上の老人は極めて少なく、保険料の軽減特権を与えても全体への影響度が小さかったのだ。

 現在では、世界一の長寿国になり、同時に少子化が進展すれば、自ずと財源が厳しくなるのは自明の理。希少なるがゆえに「敬老」なので、余りあれば「軽老」となるのも必然。この際、老人自身が甘えを捨てよう。ちなみに、自治体が行う長寿高齢者への祝い金や記念品贈呈を廃止するだけで、どれだけの経費が不要となるか。膨張した国全体のサイズを縮小する努力は政府だけの問題ではなかろう。